本

『時間の比較社会学』

ホンとの本

『時間の比較社会学』
真木悠介
岩波書店同時代ライブラリー325
\1200+
1997.11.

 実はこれは単行本のときに買って読んでいる。1981年11月刊行である。まだインターネットなどない時代のことであったが、センスのある装丁の小さな本だった。どうやら著者もそれが気に入っていたらしい。それでこの文庫サイズのシリーズに作り直されるとき、抵抗があったというが、丁寧に作ってもらったことを喜んでいると書いてあった。
 こうした経緯がわざわざ書いてあるほど、内容にはもう余裕というか、満足感がいっぱいなのであろう。若い頃の力作が、そのままに再現されるが、それだけやり遂げたものであるのだろう。
 時間論である。私が手に取ったのも、そのためであった。しかし社会学というのが新鮮だった。時間論は、ひとつには心理学的なものもあるだろう。物理学的なアプローチは揺るぎない一定の価値をもつかもしれない。しかしまた、哲学的に時間を考えるというのが、最も偏りのない総合的なものであるようにも考えられるが、哲学的時間論ほど多岐に拡がる世界観もない。こうした背景を見ていた私にとり、社会学というのは、ある意味で全く違う分野における考えだと期待したのであった。
 それを今回久しぶりに手に取った。図書館の除籍本をもらってきたのだ。
 時間をどう意識するのか、それは言語が物語る場合がある。そしてその言語を生みだしたのは、社会構造である。
 社会学と言いながら哲学的思考に基づく叙述のため、用語は難解な部類に入る。41頁に本書の概説がまとめられているが、そこにも「虚無化してゆく不可逆性としての時間の観念が、最古の版自然主義的な文化と社会の中で発生し、展開してきたものではないか」という第一の問題意識がまず掲げられ、「抽象的に無限化されうる等質的な量としての時間の観念が、都市化された(集合態的な)社会形態の中で発生し、展開してきたものではないのか」と続いて、さらに「近代文明はこの二つの文明史的な展開の統合の帰結として存立するのではないか」と続く。これらは抽象化していえば、「自然からの人間の自立と疎外、それによる自然との<生きられる共時性>の解体にかかわる要因ではないか」という仮説、それからもう第二のためには「共同態からの個の自立と疎外、それによる共同態の<生きられる共時性>の解体にかかわる要因ではないか」とのいう仮説、このあたりを問題の提起として始まるというのである。
 まず野生の思考的な、私たちの通例出会う文明とは別の文化の中で、時間がどのように意識されているかを見ていく。驚くべきことに、私たちの常識が悉く覆されていく。それから古代日本の時間意識へと目を向ける。万葉集の時代から古今和歌集へと移るとき、文学形式として大きな変化があったなどとよく古典の授業で学ぶわけだが、今回時間意識においても全く違うようになっていくということを、多くの和歌などを通して味わっていくことになる。著者の持ち味でもあり、その仮説に則って和歌が並ぶと、確かにそうだとどんどん説得されていくから面白い。
 この後、ヘブライズムからキリスト教に変わるときに、また時間について別の見方が芽生えてくるというあたりから攻めてくる。そもそもユダヤの文化の中では、時間というものを対象化することがなかったというのである。ギリシア思想のそのような見方を、キリスト教は取り入れて展開していったことで、新たな時間意識が共通意識として成り立っていく。
 というようなことを持ち出して、結局、「原始共同体」から「ヘブライズム」を経て「近代社会」の時間意識へと変遷する道を見出すとともに、「ヘブライズム」ではなくて「ヘレニズム」を経て「近代社会」へと移る図式を著者は明確に提示する。
 端折るしかないが、宗教改革期の意識から近代哲の流れに沿い、人間が時間について意識を変えていくありさまを、絵巻物を見るかのように読者は概観する。哲学はもちろん、様々な文学を彩りに添え、現代、計算できる量としての時間に制約され、むしろ支配されている私たちの姿を浮き彫りにする。その計算の中で、現在はたんなる手段になっていく、されていく、その中から、私たちは救われるのだろうか。著者はそこにニヒリズムと呼ぶべき真のものを見る。私たちはそこから自由になりたいのである。
 この本で完結するわけではない。著者は壮大な構想をもっている。「あとがき」に「比較社会学」の10の段階の計画が紹介されている。その後、少しは進んでいるようだが、まだまだ全貌を辿るには程遠いようだ。楽しみではあるが、果たしてその時間はあるのかどうか。




Takapan
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