本

『日本人の「翻訳」』

ホンとの本

『日本人の「翻訳」』
亀井秀雄
岩波書店
\3000+
2014.5.

 本も高くなった。古と同じであれとは言わないが、180頁を数えない小型の本で3000円に税が付くというのは痛い。しかし、内容的に言えば、他にはない資料がふんだんに盛り込まれており、カラー写真などではなく、ただの文字ではあるにせよ、貴重と言えば貴重であるには違いない。
 明治期あたりの翻訳の事情を、きちんと資料を呈した上で伝えてくれる。これは一般書としてはなかなか売られるものではない。いや、「言語資本の形成をめぐって」という、論文的なサブタイトルからしても、これはかなりの専門性をもった内容であると言わざるをえないだろうか。
 扱われているのは、英語である。今日では外国語といえば英語ということになりかねないのだが、明治初期において、これは画期的な、新しい風景であった。西洋の船や人が自由に入ることのできない200年余りの月日は、英語が世界へ拡がる歴史を知らずして、かつてのオランダ語ないしポルトガル語の流通していた時代のやり方で、文明を取り入れていたのである。これからの時代は英語だ、という見抜き方をした人も少なくなかったと思うし、そうなると私は新島襄を思い出すのであるのだが、黒船を経て開港した日本の諸都市では、英語を用いることを必要とされ、その研究が始まったのであった。
 いったい、初期の人はどのようにして外国語を取り入れ、理解していったのだろうか。もともと言葉が通じない間で、どうやって最初にコミュニケーションができ、言語をぶつけあったというのであろうか。
 そういう、いかにも言語学や言語史といった捉え方が本書のベースなのだろうと思うが、個人的にはやはり聖書や讃美歌を訳していった先人たちの苦労が偲ばれてならない。この本に一部、そのことが描かれている。聖書の邦訳ということについては、キリスト教関係の歴史の解説でしばしば登場する。それは、聖書の伝来という興味から説かれるのであって、聖書にしか目がいかない場合はそれでよいが、そもそも日本語に外国語を翻訳するという動きの中でその一冊の本がもたらされたという観点から、その意義や価値について説明されるということは、あまりない。
 それは、讃美歌も同じである。とくに、この本で、讃美歌の訳について詳しく書かれてあるのが私には耳が開かれる思いだった。今の讃美歌についても私は、すでに古語となったという観点から、意味を調べているものなのだが、そのとき、元の詩をどれほどいわば犠牲にして、日本語として内容を抜き取っているか、という点に驚いている。それは仕方のないことである。英語でふんだんに告げられる情報を、一音一字という制限のある日本語では、処理できないのだ。讃美歌の原詩と比べていると、実に効果的に省略して日本語で表し、英文にある内容は行間の情緒で伝えるなどのすばらしいやり方があるものだと感心することが多く、他方また、ずいぶんと神学的内容が情緒的に替えられているものだと感じることもある。そんな歌詞の翻訳事業で、この明治の初期の讃美歌訳が、なんと韻までも踏ませているのが驚きなのだ。そもそも訳すことだけでも手一杯の時代のはずである。そこへ、内容の理解も含め、信仰の度合いも重ねつつ、英語にある韻を、訳した日本語の中でも活かそうともがいている様子が紹介されているのである。しかも、その推敲過程までも一部示されているというから、実に参考になる。
 そもそも「翻訳」という言葉をやまとことばで説明すると、どうなるのだろうか。この本の中心軸は、そこにある。いったい「翻訳」とはどういうものとして理解して、この明治期ごろの先人たちは、営んでいたのだろうか。ここに踏み込むと、もうずいぶんと専門的な領域になるというものだが、その辺りは、やはり本書を味わって考えていくのが筋だと思い、この辺りで筆を置くことにする。




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