本

『ヨハネの黙示録を読もう』

ホンとの本

『ヨハネの黙示録を読もう』
村上伸
日本キリスト教団出版局
\1800+
2014.4.

 聖書を掲げながら、自らを正義とし、傲慢になり、人類はここまで来た。巨大なローマ帝国を念頭に置きながら、またその支配下で苦しめられるキリストの弟子たちや教会たる集まりを思いながら、黙示録の筆者は祈り続ける。「ヨハネの黙示録」に描かれる幻は、その筆者の精神的な不安定さを漂わせるような書き方をする中で、その幻が神から与えられたものとしてである証拠に、現代にも通じる警告と慰めを発信し続ける。
 黙示録の中には、おどろおどろしい描写も多い。だが、それは希望を見上げている。世界は確かに滅びるだろう。だが、神と共にある民は、完全な神の国の到来を希望することができるのだ。死から命に移った世界が待っている。イエス・キリストが来られる。光なる主が、やがて来られる。
 だからいまもなお、あるいはいまだからこそ、教会は、悪しき時代の中で、それを悲しみつつも、自ら悔い改めをやめることなく、真実を語り続けなければならない。そして、希望を胸に、祈りつつ歩み続けていくのである。神は、この歴史を、神の国という形で決着をつける形で、もうお決めになっているのだ。
 以上、私の理解を含めて黙示録を読む姿勢を、著者に伴いつつ記してみた。著者は、これに幾らか近い眼差しを黙示録に向け、また黙示録から聴いているように思う。村上伸(ひろし)氏はボンヘッファーの研究で特に知られ、FEBC(キリスト教放送局)でその講座を幾度か話していた。それぞれの人の立場や考え方を尊重する、温厚な話し方ではあったが、主張は強く確信に満ちていた。
 2017年に亡くなる前の、殆ど最後の著作ではないかと思われる。出版局が、存命中の牧師の説教集は出さない方針であるために、説教集をまとめる方針を変え、ひとつの箇所から4頁に内容をまとめるという形で、コンパクトに黙示録全体を旅する本となったという。多分に、説教での要点を短くした「黙想」というような姿となったのである。出版事情をまるで暴露するかのようではあるが、読者はもちろん、こうした経緯を知ることで、本書の「厚み」というものを感じることになる。この行間に、もっと発した言葉があるはずだ。思いがあるはずだ。そう構えて読み進めることができる。
 こういうわけなので、簡潔な叙述の背後にある情熱を察知することをコンパスとして、一日あたりさほど多くない分量で読んでいくことにした。
 しかしそれ故にまた、読者が黙示録について、先走った解釈をすることへの配慮は押さえているように思う。黙示録はどこか神秘的であるために、現実の出来事のあれやこれやと結びつける解釈が、古来数多くなされていた。近年のオカルト的な興味からしても、聖書にあるから、という権威づけのための奇妙な解釈を尤もらしく見せることから、信徒を守ろうとしているように思われる。たとえば、オウム真理教が聖書を利用した例は、本書でもきちんと挙げている。ただ、それは法的に処遇のはっきりした宗教団体である。しかし法的には放置されてはいるが問題含みの宗教団体が利用していることについては、さしあたり言及することができない。少しばかり歯痒い思いがしないでもない。
 だが、テロや気候変動とそれに基づく災害や、自然災害と思しき原因であるにしても人災とも言える事故などを例に挙げ、それがひとつの黙示録的風景であると感じたことは、述べられている。自然感情としても、それは当然のことだろう。しかし、それを表に掲げることはできない。人は聖書から、神の声を聞くのである。そのとき、その都度その時と場所に置かれたキリスト者、神に生かされた者が、それぞれに黙示録の言葉を自身の問題と世界の問題として受け止めることは可能であろう。その意味でも、ここにひとつの黙想が成立する。読者として、私もまた、その黙想の片隅に参加させて戴こうではないか。
 全体を46の項目に分け、黙示録が辿られる。新共同訳を標準としながらも、小河陽訳や佐竹明訳をも参考にしている。そう、訳や解釈は様々にあるのだ。大切なことは、人の業のどれかを決定打とせず、神に耳と心を向けることである。
 そのために本書が影響を与えすぎるのであれば、むしろ読者はここから始めて、自身が神と向き合って、黙示録を開いて神の声を聴こうとすればよいだろう。著者は、きっとそれを喜んでくれるものと思う。いまここで読者が何を見るべきか。どのように目を覚ましていなければならないのか。何を希望することができるのか。それを問えばよい。
 私は何を知ることができるか。私は何をなすべきか。私は何を望んでよいか。哲学者カントは、哲学の問いを四つに凝縮した。四つ目は、人間とは何か、というものであった。黙示録は、これらを正面切って問うようなことはしない。だが、カントの四つの哲学の問いは皆ここに含まれているのではないか、と私は感じる。
 本書は、難しい語り口調では全くない。聞き言葉であっても問題なくすっと心に入るような語り方である。読者は少しも構えることなく、あたりまえのような顔をして、本書を通じて、あの理解困難な黙示録の扉がそっと開かれ、いつの間にかその世界をちゃんと旅することができていることだろう。黙示録の解説書の類いでも、最も近寄りやすく、そして最も読後心に残るものが多い、そんな本であるのではないか。
 黙示録の講解説教を基にしてまとめられた「黙想」である。ライブの講解説教の説教者が薦めただけのことはある。誠実さと良心とをここから受けたら、黙示録はこれまでよりも、ずっと身近なものになっていることだろう。それは、神からのメッセージが自分の中に入ってきた、ということであるに違いない。




Takapan
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