本

『ユダヤ人イエスの福音』

ホンとの本

『ユダヤ人イエスの福音』
河合一充編著
ミルトス
\2100
2012.7.

 タイトルの横に「ヘブライ的背景から読む」とある。
 内容からしても、信徒や聖書研究者にとり、刺激的なものとなっている。というのは、よくある欧米の研究にどっぷり浸かった形での聖書知識が、崩れ去る可能性があるからだ。
 日本には公的には戦国の世にキリスト教が伝来している。しかしその後不幸な運命に遭い、多くの殉教者を生んだ。また、日本政治の中でも、キリスト教への弾圧や偏見が加えられたことが、現在にも影響を少なからず残していると考えられる。これを少しだけイメージチェンジしたのが、明治期の新たなキリスト教の紹介であった。プロテスタントが入ってきたことが大きいのだが、それは西洋文明とセットでやってきた。キリスト教は西洋のものだという誤った先入観は、このあたりの時代に基づいている面があるのだが、その後も日本でのキリスト教世界で、それを踏襲してきた、というのが真の理由であるのかもしれない。
 つまりは、西洋の歴史で培われてきた観点での解釈なのである。それが近年反省されて、ユダヤ文化の中で、聖書の記述すら理解していこうというのである。私もその考えには大いに耳を傾ける必要があると考える。
 イエスはユダヤ人だった。この当たり前のことが、歴史の中で忘れ去られてきた虞がある。少なくとも、聖書解釈において、蔑ろにされていたと言える。さらに言えば、イエスはユダヤ教の背景で発言していた、という基本的な事柄すら想定されず、あたかもスーパースターが突拍子のないことをし始めたというようなイメージで想い描かれ、決めつけられている現状があるのではないか、ということである。
 新約聖書はギリシア語で書かれている。だが、そのギリシア語を解釈することには熱心であるにしても、そのギリシア語自体、イエスが語った言語を翻訳したものである、という事実にすら、気を払っていないのではないかと思う。いや、それは私のことだ。
 聖書の様々な場面から、そこに記されている言葉を頼りに、ユダヤ文化からそのように表記される十分な理由があることが、次々に示される。爽快感すら覚える。しかも、それを衒うように、あるいは学問的な論証として描くのではない。気を楽にして読んで楽しむという中に置いてあるかのように、軽快に説明が続いていく。それでいて、内容は濃い。新たな地平を見せてくれるかのように感じるほど、心地よい刺激を与えてくれる。
 自分で聖書を正しいと思って読むのが信徒の一般であるが、そんな自分はまた、よくあるなにげない解釈や説明に、いかに偏っていたか、ということを感じる。西洋に伝えられてきた思い込みによって、聖書の真実はこうだ、と決めつけていたのではないか、という反省である。それが与えられただけでも、この本の価値は十分にある。もちろん、日常の聖書理解の中にも、大いに取り込んでいきたい。とくに旧約聖書のヘブライ語の理解が欠かせないことが、重く伝わってくる。もっと真面目に学ばなければならないことを強く覚えた。




Takapan
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