本

『イエスのたとえ話の再発見』

ホンとの本

『イエスのたとえ話の再発見』
ヨアヒム・エレミアス
南條俊二訳
新教出版社
\3000+
2018.9.

 福音書にあるイエスの語ったたとえ話には、謎が多い。どだい、時間空間を異とする現代の私たちが、離れた文化で語られたたとえ話を、すんなり納得できるはずがない。それが、初代教会においてすでに、理解の中に齟齬が生じていたとなると、もう絶望的に、本来のたとえ話のリアルさを知ることは不可能ではないかと思われてくる。
 本書は新訳である。専門的なエレミアスの著作を、一般向けに読みやすくしたものだと言われているが、それは論文特有の引用と根拠の明示、特に原典ギリシア語の提示などを省いた形で、こうした読みやすい形で提供するというのは、学者にとっても一般読者にとっても、良い試みであると思う。こうした二段構えでの発行ができるというのも、この著作がたとえ話についての金字塔的な名著であるが所以であろう。
 ドイツ語版は1972年、その邦訳も難解だとこの訳者は言っている。それが、英語版による者を見て、新しい訳ができるという希望のもとに本書が成り立ったのだという。英語からのものである故、原著と少し違うニュアンスがあるかもしれないが、確かに日本語として読みやすいものに仕上がっているといえる。
 著者は「はじめに」で、概論的な第2章を飛ばして、具体的なたとえ話の解説の並ぶ第3章を先に読めと支持していた。けれどもそれでは、なんのためにこの順番で並べたのか、よく分からない。もちろん、その指示の狙いは理解できるつもりであるが、私は置かれた順番で読ませてもらった。
 すると、現地の古来の文化がものをいうという視点がどうしても必要であることがまず分かってくる。それと同時に個人的には、教会の中のヘレニストたちの役割が大きいことに気づかされていく。新約聖書がギリシア語で書かれた背景には様々な要因があると言われるが、やはりそれをギリシア語により成立させたということは、結果的にこの聖書や信仰、そして教会の行き先を大きく変えてしまったことになる。だからこそまた、世界宗教になった、とも言えるのではないか。
 日本文化が英語で広まり、専ら英語で語られることによって世界に知られていたらどうなるだろうか。源氏物語や平家物語が、元の日本人が感じるものとは大きく違うものとして広まり、理解されるようになっていくのではないだろうか。それが全世界にシェアされるに至ったとしても、元来の日本の古典とは別物となり、またそこから日本文化論が華やかになったとしても、日本人からすればずいぶん違和感を覚える文化として遺っていくことになりはしないだろうか。
 ともかく、福音書のたとえ話は、もとよりイエスから発されたものとされていても、イエスの語ったとおりであるようには考えられないとすべきだろう。また、たとえ話の意味が理解不能だからということで、たとえ話の解釈がわざわざ説明されているというのも、極めて怪しいように見られて当然である。つまり、編集者が理解したことを、信徒向けに説明を施したというような由来がちらりと見えるような気がする。
 エレミアスは、綿密な文化考証から、冷静にたとえ話を分析する。もはやいまでは常識となったような理解の仕方が、半世紀前にはやはり画期的であったかもしれない。しかし信仰を踏み外しているようには私には見えない。むしろ、まだ甘いのではないかと思われるところもないわけではなかった。何をもって、それは事実として疑いえないとか、それは疑わしいとか、判断できるのだろう。その根拠を一つひとつ示す暇はなかっただろうけれども、やはりどこか曖昧な、個人的な見解によるものではないかというふうに見えた。疑えば、とことん疑えるのである。
 よく、「神がそんなことをするはずがない」という美しい信仰があるが、それを論文の論拠として用いるというのは、学問と信仰との恣意的な接続であることになるのではないか。神がなんでもしてよいのであるならば、そんなこともするのである。それは人間のせせこましい倫理などには制約されないのである。
 たとえ話は、古来、そこには深い意味が隠されており、謎解きのような態度で挑むことが多かった。それは好奇心のなせる業というよりも、最初は純粋に信仰の問題であっただろうと思われる。なんとか神の意図を知りたい、それというのもたとえ話では神の意図が明白ではないから、本当のところ何を言いたいのか知りたい、表向きに言われている通り名のだろうか、それとももっと深い隠された意味を読み取って行くべきではないだろうか、そのようにたとえ話を説き明かすのが筋道だったことだろう。しかし、イエスの語られなかったことや、イエスの語ったのとは違った形で福音書に収録された、編集されたのであるとすれば、私たちとしては、その聖書という形で成立した弟子たちや教会の見解というものを覚ることも重要であるし、他方、当初のイエスの見ていたもの、考えていたものそのものを知りたいという思いも当然あるわけだから、できるならば、ここは二段構えで受け止めていくのが望ましいのではないかと思われる。
 当時の人に向けてイエスが語った語録の中でのたとえ話についても、知りたい。しかし同時に、教会のごたごたの中でヘレニストたちを通じて新しく理解された、教会の土台となるべき考え方にもまた、意味があると考えざるをえない。そして私たち信仰者は、どちらも無視することはできないとすべきだろう。できるなら、イエスの声を聞きたい。イエスの語ったことそのものを受けたい。だがそれは、もはや聖書という文献の中からは困難な願いとなっている。こうなると、聖書のみとしたプロテスタントの原理そのものが、絶対的なものだとは言えなくなる。神秘的なイエス理解がよいとも思えないし、しかし構築された聖書に基づく教義を盲信すべきであるのかどうかも疑わしいように見えてくる。
 なんともむず痒いような仕打ちを私たちは受けている。たとえ話を分析した本書では、当時の文化についていろいろ説明されているため、教会の説教にも十分使用可能であるように見受けられるが、何より大切なのは、解釈者自身が、この語ったイエスから直に声を聞くことを求めることである。本書もまた、ひとつのそのための助けとなりうるような、誠実な本であるように感じた。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります