本

『イエス物語』

ホンとの本

『イエス物語』
廣石望
コイノニア社
\1700+
2008.10.

 いまは存続していない出版社・コイノニア社。私はすっかりファンになった。良い本がいくらでも出ている。いま知ったことを惜しくも思うが、古書ルートで入手できることがあるので、探しては送ってもらっている。
 説教集と言ってよいかどうか分からない場合がある。説教を基にして読みやすく書き下ろしたものもある。だが、説教と思って聞くことにしている。説教のひとつの好さは、分かりやすさである。また、時間系列の中で一方向で流され、その中で理解されるように語られるものだから、細かな注釈を縦横に辿ったり、やたら参照せよと指示されなくて済む。厳密な議論がないとは言わないが、聞いただけでつながるように、論点の主軸が明確である。そこにないのが、声色や語り調子というだけのことである。
 ここでは、イエスの生涯を、およそその順に辿るという行程の中で、共に旅するような思いで同行できる楽しみがある。副題は「福音書を読む」である。4つの福音書を適宜横断しながら、その誕生から復活までを読んでいく。「読む」というからには、読み込むことがそこに意図されている。どう読み込むか、それは読者には読者なりに読み方があるだろう。著者にとっては、海外での経験もあり、貧しく差別された子どもたちの姿がそこにある。可哀相にと同情するのではない。私たちが文明を堪能していることそのものが、その貧困を作っているのではないかという視点を含め、自分との関わりという眼差しを崩さない。たんにそう思えばよいというものではないが、これは私にはよく分かる。自分が世界と関わりをもたないという味方が、近代の正義を作ったと思われるからだ。私が世界に関与しているという点を抜きにして議論を始めようとする。否、議論をそれだけで終わらせようとする。しかし著者はそうではない。異世界と強く関わっていく。それは個人だけで、自分だけでできるのではなく、イエスと共に歩むことによって、成り立つようになる出来事なのである。
 時に、聖書自体をそこまで読み込んでよいのだろうか、というほどの読み方もしないわけではない。しかし、イエス自身、当時の律法を読み解いて、誰もが考えなかった光を当てたのだ。手垢にまみれた新約聖書の語句が、新しい光に照らされて悪いわけがない。それは聖書の伝統を崩すことではなく、聖書のことばがいのちであることを改めて浮き上がらせることになるなら、すばらしいことではないか。
 だから、随所でどきりとさせられる。イエスの眼差しは、そういうものを見ていたのか、と思わされる。ほんとうに、イエスの脇にいて共に旅しているように思えてくるのである。時に叱責され、時に赦しの眼差しで見つめられ、励まされ、呆れられ、そんな同じ空気を吸っているような思いになってくる。読書により体験できるという醍醐味がそこにある。
 現代の問題をどう捉えるか、それは結論としては、キリスト者がよく言うことにつながるものであるかもしれない。しかし、聖書とつながる接点の取り方については、著者独自のものがある。私は終わり近いところの「平和」を深く味わわせて戴いた。「平和」と「いのち」、そして「赦し」がつながる一筋の道に、神の光を強く覚えた。
 もちろん、本書の魅力はそれだけではない。ただの聖書解説でもなければ、ただの個人の感想でもない、聖書からいまの社会とそこに置かれた自分へ呼びかけられる「ことば」を受けるために備えられた有力な旅の道であるとして、イエスに伴って歩むツアーを、勧められたような気がしてならない。




Takapan
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