本

『主イエスの前とうしろ・説教集』

ホンとの本

『主イエスの前とうしろ・説教集』
石居正己
聖文舎
\500
1988.9.

 偶然古書店で見つけた、小さな本。文庫サイズだが、78頁と薄い。よく見つけたものだと思う。説教集と小さく書いてあるが、この薄さで8つもの説教が入っているから、一つひとつの説教は至極短い。
 しかし、味がある。遊びなく、要点がズバッと斬り込んでくる。黙想のためにも優れた内容である。聖書の細かな表現も気にするが、それは原語の意義を振りかざすようなものではない。言葉を曖昧に使うが、「霊的に」と示唆し、導いてくれる。
 たとえば「もし自分の力にあまれば」という説教。戦いを交える前に戦力を考え、敵わなければ和を求めるではないか、というところから語られていたが、私は鈍感なことに、いまひとつ自分の中にこの話の実感を覚えたことがなかった。ところがこの説教は鮮明に示してくれた。戦わなければならない相手は、神だ、と。なんと、自分は神を相手に戦いを挑んでいたようなものだったのだ。それは、私の救いの原点ではなかったか。そんなことも見えないでいて、聖書とどのように触れあっていたのか、情けなく感じられる。だが、この小さな説教集で目が開かれた。
 聖書は、もっとダイナミックに読む必要がある。そう思わされた。
 語句の用法や活用、そういったことへの関心が無意味であるはずがない。だが、記者がインスパイアされた事柄を、そのままに受け止めるような、勢いのある読み方がもっと必要なのだ。記者は、キリストに出会い、キリストの声を聞きながら、いわば命を賭けて聖書の言葉を綴った。そのときには、それがカノンたる聖書になるのだなどという思いは微塵もないであろうままに、だが神から押し寄せてくる思いを夢中で書いたのではないかと思う。その生き生きとしたありさまを感じようとしないでは、私たちがキリストと出会う世界に入れるはずがない、というようにも思えてくるのである。
 タイトルの「主イエスの前とうしろ」という題のものが中央にある。タイトルの言葉の意味は、ほんの一瞬しか出て来ない。私は、主イエスの歩みの前に出ようとするのか、うしろを従うのか、その決断を迫るものであったが、そこではイエスの姿を描くことに徹しているようだった。私たちがどうでありとやかく言いたいなどという問題は捨象して、ただイエスを見つめる。十字架で死ぬなど言わないでくださいと諫めるペテロに、人のことばかり思うな、と厳しく戒めたイエスのシーンからの説教である。
 幾人かの牧師が集まり、小さな説教集を出そうとすることを決めたときの、第一号がこの本だそうである。石居牧師は、きっとこの「前かうしろか」に厳しく、そこに徹して生き、そして語られていたのだろうと推察する。
 この石居正己牧師は、福岡県の出身だという。それだけでも親しみを覚えるから不思議だ。ルーテル神学大学でも教えられたそうだが、そのご子息の石居基夫牧師が、ルーテル学院大学の学長を務めている。ラジオでお声を拝聴するが、穏やかでありつつシャープな語り口調で好感がもてる。きっと父上も、このように人々に優しく、そして信仰には厳しく、このような説教を語っていらしたのではないかと想像するのである。




Takapan
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