本

『イエスと当時の革命家たち』

ホンとの本

『イエスと当時の革命家たち』
O.クルマン
河村輝典訳
日本基督教団出版局
\380
1972.2.

 文庫クセジュをはじめ、新約聖書に関する役立つ本を世に送っている人による本だが、小さな本である。古い小さなこの本を、古書店の片隅で見つけた。赤いボールペンで線がたくさん引いてあった。けれども、他ではもうお目にかかれないと思い、200円を支払った。ちょうど、この初代教会の様子についての本を何冊か見ている最中だったからだ。
 発行から半世紀を経て読んでいるために、その後の神学や聖書の研究を踏まえないものとして会うこととなった。タイムマシンに乗って出会ったようなものである。だが、聖書に関して、新しい研究をしないと仕事にならないプロの研究者ならいざ知らず、聖書に親しみたいとか、学びたいとかいう程度の私には、半世紀でもむしろ新しいものとして受け止めることができる。
 いまの眼差しから聖書を理解して、聖書もその程度のことが書いてあるのだ、というふうな考え方が、当時一部にあったのかもしれない。「適用」としてそれが一概に悪いことはないのだが、それを聖書そのものの評価に持ち込んでいくと、何かしら間違った道に踏み入ってしまう虞があるのは本当だ。
 その点、当時の人々の視線、立場に沿って考えようというのであるから、決して古びない落ち着いた姿勢を見て取ることができると言えよう。歴史的にどうであるか、を見ようとする姿勢を省略しては、聖書の伝えようとするものを適切に受け取ることができないことになる。もちろん、歴史マニアとして謎を解こうとしているのではないことは、読めば分かるはずである。
 特徴的なのは、イエスがゼロテ党(熱心党とも訳されている)と強い関係がある、少なくとも大いなる影響をもつ、という立場を貫いていることだ。ゼロテ党員であるとか、その思想と同じだ、と言っているわけではない。しかしこの点を強く言う声は、最近のものには殆ど見られないような気がして、新鮮であった。
 なるほど、そことの比較だからこそ、タイトルのような「革命家」という表記が登場するわけだ。確かに、そういうのがあったらしい、という程度の説明で通り過ぎることが多いが、後のマサダ砦での戦いのような場面へつながるものを考えるとすると、これは無視できる代物ではない。まして福音書が編集されたのは、ユダヤ戦争を知って後の話である。だが、そこでゼロテ党が記されるというところには、当時の人なら黙って肯くような何かが隠れていたことは予想される。ただ、イエスがそれとどう関わるのか。また、イエスと彼らの思想とはどこがどうつながるのか。確かに興味深い問題である。
 著者は、イエスがローマにより裁かれ殺されたことに注目する。それは政治犯に対する処置であった。つまり、まさにゼロテ党の一員であるかのように裁かれたという見方を呈するのである。なるほど、イエスが終末論をどのように考えていたか、国家をどう見なしていたか、確かにそれは政治的な部分に抵触するかもしれない。
 また、律法主義の側からしても、イエスがあまりに律法から自由であるべきであるように教えていることは憤慨していたことだろう。まさにそのような思想は革命家のすることではない、と。このように見てくると、イエスが社会体質についても非常に反対的でぶつかりやすい考えを述べていたことを思い起こすことができる。個人的な心における悔い改めこそが神の国なのだという教え方は、個人の中の信仰の問題ではなくなっていくのである。私たちがキリストと呼んでいるそのメシアは、当時の常識からすれば、内心の問題で完結するものではなく、政治的な解放者としてしか受け止められなかったに違いないからである。
 だが、イエスの言う神の国とは、この世の国のことではなかった。イエスは確かにそう言っていた。しかしだからこそ、ローマ国家に対して反逆をするものではなかったはずである。イエスは決して、ゼロテ党員ではない。
 著者はこうして、次第にイエスをゼロテ党から引き離していく。むしろイエスはゼロテ党のようであってはならないのだ。そしてそれは、この世の国を目的とすることしかしない人々、つまりは教会とは関係のない組織や団体から、教会派距離を取るべきだという態度に結びつく。それはこの世のために働くないという意味ではない。あくまでも福音を携えて歩み続けるべきなのだ。
 本書には、小さな論文が添えられている。「新約聖書における終末論と伝道」と「初代教会の内部の不一致」である。後者も面白いが、かなり壮大な視野を必要とするものだけに、ここだけで見てどうというのは気の毒な気がする。それよりも前者のほうで、いま私たちがどこに立っていて、それがどういう意味をもつかということについてのひとつ気づかされることを指摘されたのがうれしかった。
 イエスの復活は、終末への道の確かな始まりだというのである。イエスの復活が大きなエポックとなっていることを噛みしめるように、言葉を畳みかけてくる迫力を感じた。終末を意識した言い方をしても、今のことをよく中間期と呼んだり、「すでに」と「いまだ」の間と称したりするものである。しかし復活と共にカウントダウンされ始めた中で私たちは紛れもなく終末を生きているのであり、たんに波の上を浮遊しているようなあり方をしているのではない。終末を目標として、つまり目指して、確実に終末を生きているという自覚をもちたいものである。但し著者は、今という時代が何か特別な時代のようにこのことを言っているように見受けられるが、私は、かつてのキリスト者の先人たちもまた、その都度そうだったと見なしてもよいのではないか、というふうには感じている。
 いまの教会が、現世国家となあなあの関係になってしまうのではなく、凜として福音に立ち、終末の時を、キリストの言葉を伝えながら進んでいくイメージがここに描かれていた。それは素敵だ。でも私は、もはや教会がそのような勇ましい立派なものであるようには、どうにも思えなくなってきている。無力とは言わないが、個人商店かカリスマ社長の思い込み商売が盛んであるように見えてならないのだ。
 小さなブックレットのような本であったが、いろいろ刺激が多かった。




Takapan
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