本

『イエスのいる風景』

ホンとの本

『イエスのいる風景』
佐伯晴郎
文芸社
\1470
2009.10

 一牧師の回顧録のような体裁をもちながら、未来を見据えた視点を提供してくれる。サブタイトルに「キリスト教シンドロームの克服」とある。つまりは、キリスト教の批判なのである。
 この批判は、著者の経験にも由来する。新たな運動を興したとき、日本の牧師たちにずいぶんと批判を受けたのだ。そして、それはどうしてだろうかと思案する。日本のキリスト教世界には、どんな問題があるのか。アメリカやドイツに留学した著者が、他国からの景色の中に日本のキリスト教世界がどう映るかをよく検討する。
 こうした背景の中で、シンドロームなるやや強い言葉が出てくるようである。日本の教会は、自分たちではあまりそうとは思っていないながらも、病気にかかっているというのである。しかもそれは突発性ではなく、慢性的な、すっかり染みついた疲弊として殆ど属性のようにさえなっているというのだ。
 戦国末期にキリスト教が伝えられたとしても数百年、明治期からの本格的な伝道から百五十年も経っていない。あと五百年くらい、根付くには必要かもしれないという呟きも尤もなことであろう。だが、その問題は、日本の思想風土だとか宗教環境などの分析へと向かうものではなかった。ただただ、日本の教団的姿勢と旧態依然とした礼拝姿勢に、新たな魅力を発するものがない、という点が際立っている。
 私はそれでいいと思う。徒に、日本思想の風土を調査するばかりで終わってはならないと思う。それは科学的であるかもしれないが、だからどうなるというものでもない。その研究をする人がいることは貴重だが、すべての教会や伝道者がそこからスタートしなければならない理由はない。問われるべきは、自分たちはそれでよいのか、という視点である。たしかに、著者が指摘するように、礼拝に偶々来た人が魅力を感じるだろうか。奇妙な集団だ、という感想を漏らすのが、率直なところではないだろうか。教会員が老齢化してきくのは、見事に若い人々を捕まえそこねているからだが、一部の若者を立てる斬新な教会は別として、多くの教会が年々単に平均年齢を上げ、活気をなくしていく有様は、ご指摘の通りである。だから若者をどうこうしなければならないとか、滅亡寸前の教会学校を盛り上げるノウハウだとかいうところへ走るのではなく、著者は別の一つの鍵を、体験的に語る。
 それは、「出会い」である。
 著者は、イエスに出会った。その体験が、著者を支えている。そこに、道ができる。イエスに出会うことなしに、教会に連なっている人、あるいは教会の中心に居座っている人の存在は、私も気づいていた。だが、著者もまたそこに大きな問題があることを感じている。伝道という姿勢が、思想を教えること、思想に染めようとすること、あるいはある時期に西洋から移籍した型にはまらなければならないと強いることである限り、出会いから始まる救いはないであろう。その人がイエスに出会うように願い、その準備をする。そのために自分が今何をしなければならないか、そこに伝道の姿がある。イエスのところに仲間を連れてきたヨハネの福音書の最初の弟子たちのように、私たちは、イエスと出会う人々が増えることを、出て行って求めなければならない。そのために、せいぜい礼拝の場が、信徒にエネルギーを与える場となってもらいたいと願うし、そういう説教がなされなければならないと考える。
 必ずしも、統一した論理でまとまった書ではない。あるいは、ただの回顧録でもない。不思議な本である。イエスに出会ったクリスチャンならば、書いてあることがよく分かるということもあるだろう。そうでなければ、どうしてこんなことを、と訝しく感じるかもしれない。表向きの日本のキリスト教世界の批判の言葉にカッカせず、いまいちど自分を省みる機会として利用しては如何だろうか。私もよく思う。福音書のファリサイ派の姿と、今日の教会の姿が、いやに重なって見えることがある、と。神に従っていると自称しながら、実のところ神に反していた、それがファリサイ派である。イエスはそこを批判した。奇妙なことに、福音書のイエス以後、弟子たちもパウロも、全くファリサイ派を批判しなくなる。だが、イエスにとり大きな敵はファリサイ派であった。教会がそのような敵になる素質を、古来から有していたということなのかもしれない。
 イエスのいる風景。ロマンチックなタイトルである。それはそれで確かなこの本の主眼である。だがイエスがそこにいるためには、イエスと出会わなければならなかった。そして著者もまた、随所でこの「出会い」の重要性を強く言っている。もしかしてタイトルに、この「出会い」の言葉を交えてもよかったのではないか、と私は読後に感じた。
 アカデミーハウス、そこでのターグンク、家の教会、そうした新たな試みを著者は生きてきた。小さな教会を守るべく立てられた牧者たちもまた、ただの保守としてではなく、出て行く福音について、もう一度駆り立てられる思いが与えられるならば、著者の願いが通じる一歩となるのではないかと思われる。自然神学への傾向を指摘する日本の風土であるが、ただそれだけが障害なのではないと著者も考えていることだろう。自分の目の中の梁に気づくことが肝要だ、とイエスも言っていたではないか。




Takapan
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