本

『イエスと出会う』

ホンとの本

『イエスと出会う』
荒井献
岩波書店
\2500+
2005.2.

 なんとも切ない本であった。聖書や神学についての碩学たる著者の、専門的論文ではなく、一度聞くだけで理解可能な講演や教会説教、またコラムなどからも集めた短文などを含めた本である。おおまかには、エッセイ集とでも呼べばよいのだろうか。読みやすいことは間違いない。
 標題に深く関連する講演が尤も長く、それを軸として集められた文章の数々ではあるだろうが、必ずしもそのテーマに制約されるものではなく、著者の学問の舞台裏、あるいはバックボーンといったものが、惜しげもなく公開されているものと見たほうが適切ではないかと思う。人となりが伝わってくる、とでも言おうか。
 かつて『イエスとその時代』という、よく読まれた新書が出されたとき、キリスト教界には大きな反響があったという。聖書を何だと思っているのか。神の言葉を殺すつもりか。そんな剣幕で非難をされたのではないかと想像する。それが1974年。そこから30年余り、時代は変わった。むしろそこで述べられていたようなことの多くが常識化しているとも言える。聖書を学問の俎の上に上げれば、このような分析方法は、無意味ではなかったのだ。
 しかし、そこでやはり大きな課題となってくるのが、「信」と「知」の問題である。著者はあまり強調しないが、中世哲学の大きなテーマとして、ヨーロッパ人はこの問題をもう歴史的に痛いほどに味わい尽くした観もある。それでも、ある意味で科学的調査や研究が進んだ現代、聖書とは何かということについても考えていかねばならなくなったとき、改めて信と知の問題が取り上げられるということは、決して歴史を逆に戻ることにはならないはずである。
 その点、著者は冷静に聖書を取り扱うことに長けている。では、そう取り扱っている自分の信仰と、その仕事とは、どう折り合いを付けることができるのだろうか。これは傍観する私たちからしても、関心があることである。あるいはそれは、私たち自身の信仰にも関わってくる。いったい聖書に書かれてあることは歴史的事実なのか。そうでないと思しきものがあると認めることは、自分の信仰を変えてしまうことになりはしないか。さらに言えば、自分の信仰など、意味がなくなるのではないか。そんな心配が、現代の教会で、とくに福音信仰と呼ばれる教会にどっぷりと浸かっているときには、恐怖の装いを以て臨んでくることがありはしないだろうか。だからこそ、私たちは聖書を「すべて」事実あったこととして偽りのない書だと「信じる」という声明を出してみたくもなり、それが純粋な信仰者のとるべき態度だと主張して止まない、ということがあるかもしれない。だが、それは非常に脆い部分を併せ持つと私は感じる。というのは、もしも聖書の記述にあることは歴史的に違うようだ、ということが明らかになった場合(それはすでに沢山あるのだが)、同時に自分の「信仰」が崩壊してしまう虞があるからである。
 堅い棒ほど折れやすいという。しなやかな竹は曲がるけれども折れはしないという。言うなれば、著者は竹のような力をもっているのである。安易に、自分の中の信と知の問題を言葉にしてしまうべきではないかもしれないが、それをできるだけ誤解のないように、そして自分に言い聞かせるかのように綴っている、それが本書の多くの個所で見出される、著者の告白である。私はそれを尊いと思った。こういうことを、正面切って語ってくれる研究者の姿勢は尊敬に値すると思った。そして、この「信と知」について何かを述べようと格闘すること自体が、私にはひとつの「信」であるような気がしてならないし、それでよいと考えている。
 本書に戻ろう。上に記したように、著者の人間味溢れる本書の叙述からしてすでに伝わっていたかもしれないが、本書には温かな血が通っている。失礼ながら一言でいうと、そういう本である。
 講演については二度、「質疑応答」も掲載されている。著作集にもあったのだろうと思うが、時代性も見えてきて、今は昔というような雰囲気も漂ってくる。つまり、大学紛争真っ直中であったのだし、教団紛争というものも深刻だった時代である。特にひとり、執拗に自己主張を繰り返す質問者がいたが、誠意を以て対している著者の答え方は学ぶべきところが多かった。
 自分の生い立ちについての叙述も多い。それが「血の通った」というひとつの理由であるが、最後に置かれた、妻と母のことについては、涙を禁じ得なかった。ひとを愛することがあってこそ、神を愛することへと進んでいけるものであるのだと改めて教えられた。自由主義神学だとか冷たい聖書批判だとか、研究者の研究結果を見て、その人物もやくざな奴だろうと決めてかかるような傾向が、「信仰深い」信徒や指導者には、いくらかあるかもしれない懸念がどうしてもつきまとうが、そんなことは少しもないのだ、ということが、このような本によって、理解されていけばよいが、と願わざるを得ないものである。




Takapan
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