[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

本

『イエスの目から見た女性たち』

ホンとの本

『イエスの目から見た女性たち』
ギエン・カーセン
村瀬俊夫・伊藤淑美訳
いのちのことば社
\1365
1989.7.

 少しばかり古い本になるが、教会でお借りした本である。価格も今どうなのか、調査を怠っている。
 だが、これがなかなかいい。
 キリスト教に限らず、宗教一般では、女性の力がかなり強い場合がある。キリスト教会もまた、女性が多数というケースがしばしば見られる。しかしながら、牧師をはじめ、教会の役員とくると、男性の比率が急に上がる。中には女性の役員は認めないという場合があるかもしれない。なぜかというと、聖書時代がそうだからだ、などと聖書に根拠を置く説明をすることがあるし、新約聖書の書簡の一部を引用して、女性は黙っていよ、などということを金科玉条のように掲げているケースもあるだろう。いや、表向きにはどうであれ、心理的にはそういう場合が少なくないものと思われる。
 だが、イエス自身はどうであったか。これが、落ち着いて聖書を読むと、驚かされることがある。イエスは、男女を基本的に、びっくりするくらい平等に扱っているのである。もちろん、あらゆる性差をなくしてしまっている、などと言うつもりはない。ただ、当時女性には何ら権利がなく、また意見を言うようなことも許されなかったであろう社会制度の中で、女性を対等に扱い、その権利を十分認めあるいは支えているようにしか見えないのである。つまり、現代社会の中で女性の権利だとか何とか言われる中で聖書を読んだときに違和感がないほどにまで、そうなのである。
 この本は、イエスと出会った、一人一人の女性のケースを、地上の眼差しで適切に追いかける。その女性はどういう生活環境に置かれていたか。どういう道徳の下で、またどういう視線の中でどういう日々を送っていたか。そのことでイエスに助けられなかったらどういう目に遭っていたのか。そういう、聖書では当然前提としているにも拘わらず、いやだからこそ、聖書に直接無粋な説明がなされていない事柄について、歴史の中ではあまり正当に取り扱っていなかったのではないだろうか。著者は、一女性としてこの問題を世に示す使命を与えられた。そのためには、生き生きと生活視線で聖書に記述された事件をたどる必要がある。それも、女性の生活を等身大に描くことで。
 その上で、イエスの対応には驚嘆を示さざるをえないことをも記していく。女性に触られると汚れるという、基本的な律法世界の常識でさえ、私たちは忘れて聖書を読んだつもりになっているからである。イエスは、女性に触れられたのだ。また、女性とは汚れを避けるためにも会話をしないのが普通のラビなどとは違い、異邦人の女性とでも平気でまともに話をしているのだ。今の社会では当然ありうるだろうということで、私たちがうっかり見過ごしてしまいそうなところにしっかりと光を当て、それが当時の男性優位社会ではとてつもなく異常な反応であるのだということを、ひとつひとつ指摘していく。それだけで、十分大きな仕事であると言えるだろう。
 著者は、各項目の最後に、読者に考えてもらう問いかけをいくつか用意している。実はそれは、討論のためのものであった。巻末にあるのだが、この本を用いて、グループで一時間程度の議論を、著者は期待しているのである。ここに書いてあることを押しつけてすべてを終えようとしているのではないのだ。むしろ、ここから議論が始まってほしいという姿勢である。聖書の解釈でもいい。また、この聖書の精神をどう活かして行くかを考えたい。あるいはまた、現代の女性はどう動いていけばよいのかについての問題提起としたい。そんな様々な含みをもちながら、具体的な討論の素材を提供しているように見える。
 それにしても、ヨーロッパにおいてキリスト教を受け取った男性たちは、あまりにも男性優位のままにこの信仰を受け取っていったものだ。イエスが女性をどう見ていたのか、そこに気がつけば、男性が威張って常に指導者でなければならないなどという考えを、どうして持ち続けることができたのであろう。もちろん、それは今のような女性の権利云々という常識のある時代であるからこそ、そのように言えるのかもしれないが、やはり私たちは、聖書を聖書として聖書そのものにおいて読むということが、簡単そうで、いかに難しいことであるか、を思い知るのである。現代の私たちの聖書の読み方そのものを偶像化してはならない。女性のことも当然また考えていくべきであるが、そのように聖書の読み方そのものへの反省と警告とを、私は受け止めていきたい、とも思った。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります