本

『イエスに邂った女たち』

ホンとの本

『イエスに邂った女たち』
遠藤周作
講談社文庫
\466+
1990.12.

 なんとも贅沢な文庫である。厚手の紙に、名画はすべてカラー写真。「名画」と言ったのは、本編に登場する聖書の中の女性は、悉く西洋絵画のよいモデルとなっているからだ。名作が次々と並ぶ。これを見るだけでも価値がある。
 取り上げられた女性は、マグダラのマリア・サロメ・娼婦・姦通の女・マルタとマリアの姉妹・ベタニヤのマリア・かくれ切支丹のマリア・聖母マリアであるる。冒頭のマグダラのマリアだけは、章が三つ使われており、聖書世界でもさまざまな取り上げられ方がされていることを示唆している。かくれ切支丹のマリア、というのが聖書に登場しない唯一の女性であるが、これは要するに聖母マリアのことであり、日本の歴史の中で、かくれ切支丹の時代、あるいはその後潜伏切支丹とも言われる場合があるが、そこで聖母マリアがどう見られていたか、ということを話題にしている。
 遠藤周作自身は、カトリックの信徒である。ただ、幼いときに与えられた信仰が、自分の中で葛藤を呼び、精神的に苦しむことにもなる。独自のキリスト教観ももち、それを作品として発表したことで、カトリック教会でも禁書扱いを受けたことさえある。
 本書も、その自分の考え方に触れている。ただ、どの作品でもエッセイでもそうだが、自分の考えを読者に押しつけるようなことはしていないと思う。ただ自分の信仰においてはこうなのだ、というふうであろうと思われる。
 遠藤自身は、聖書について様々な解釈があることを受け容れている。カトリック教会の本山が指定した通りのことを鸚鵡返しにするようなことはしない。聖書研究も近代進んでいる。そこから、聖書の記事が歴史の中でどうだったか、という点も、一定の理解が進みつつある。遠藤自身は1996年に他界しているから、それまでに出された学説や、キリスト教世界で議論されたことを、それなりに踏まえている。本書の中の解説でも、そうしたことにきちんと触れられており、好感がもてる。
 本書の文章は敬体で書かれており、読者に優しく語りかけるような口調である。絵画鑑賞のコースを案内してもらい、ガイド音声でも聞いているかのようだが、心地よく鑑賞ができるように思う。時代的なものもあり、女性に対する言葉としてその後四半世紀を経たとなると引っかかる、という場面がないわけではないが、心を大きくして受け止めるならば、これはなかなか優れた解説であるとは言えまいか。
 文学者らしく、世界あちこちの文学に結びつけて話をしたり、あるいは時に聖書の詳しい解説をしたりして、読者を厭きさせない。その意味では、なかなか役に立つ聖書入門ということにもなり得る。文章は頁の上4分の3が本文であり、下は、話に出て来た聖書箇所を小さなポイントで印刷し、読者は聖書を持ち出して開かなくても、どういう記事に基づいての話なのかが、すぐに分かるようになっている。これは親切である。また、人物名その他についての、簡潔な解説にもなっている。つまり、巻末の「注」を開いて探すような必要はない、ということである。
 自分の身近な体験を例話のように含めるなど、さすが一流の文学者、読む方を退屈させない話芸に秀でている。それでいて、一本筋の通った信仰が流れているだけに、ことさらに反発を覚えるような人でなければ、本書はなかなか心地よいエッセイだと言えないだろうか。
 タイトルは「邂った(あった)」という、少し衒ったととられても仕方がないような言葉を使っている。もちろん「邂逅」に基づくものであろう。またとない機会、ユニークな出来事、あるいは特異点とも言えるような出来事をいうのであると思われる。ギリシア語で言えば「カイロス」という語による、特別な「時」である。女性たちにとって、もちろんイエスとの出会いは、そういうものであった。だが、私は勝手に想像する。遠藤自身、本書によって読者が、イエスとの出会いを体験してほしい、そういう願いをこめていたのではないだろうか、と。外れていたとしても、私はそういうものとして、本をお薦めしたいと思っている。




Takapan
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