本

『問いかけるイエス』

ホンとの本

『問いかけるイエス』
荒井献
日本放送出版協会
\1748+
1994.3.

 福音書をどう読み解くか。この副題が、本書の題とともに実によく練られたものであることは、恐らく読後に初めて感じることであろう。
 1993年の4月から9月まで、NHK「こころをよむ」というラジオ放送のシリーズ「イエス・キリストを語る」のテキストに、手をさらに加えてまとめ上げたものであるという。毎週日曜日の、教会では礼拝のあった時刻に放送されたようで、教会に行けずにラジオ放送を聴いていた人も、価値ある時間を過ごせたのではないかと推測する、そんな内容である。全26回。但し本書を構成する中で、第8講が新しく加えられたのだそうである。こうした背景については「あとがき」に詳しく書いてある。
 360頁を越えるハードカバーの書であるから、時代を考慮しても、この質と量でこの価格は安いうちに入るのではないかと思う。それで一流の聖書案内が読めるのだから、いまの学生にもぜひ読んでもらいたいと思うものである。
 研究書というわけではない。また、放送テキストよりもさらに読みやすく考慮して直しているというし、文中で言及する聖書箇所は、頁下部の註欄にたっぷりと示されている。通常こうした註の空白は大概の頁で白く開いているものであるが、本書はその空白を捜すほうが大変なくらいに、ぎっしりと埋められている。別の聖書箇所を、いちいち聖書を開いて捜すという手間は全く省かれると言ってよく、親切な構成になっていると言える。
 ここまで形式的なことばかり書いてきたが、内容の一つひとつをここに挙げるとは勘弁してもらいたい。荒井節が十分に現れており、聖書について幅広い知識と、時に外典などからの参照も加え、立体的に新約聖書が読み解かれていく。しかし大抵は、地味に各福音書の間の相違を比較しつつ、それぞれの福音書記者の性格や特質を鑑みながら、時代環境も加味した解釈を施していく、なかなか鋭い現代的な味わい方を手際よく示してくれる。山上の説教のような教えの内容についてや、イエスの行動を記録した物語の意味、また語られたたとえの意味など、バランスもよく、聖書の随所が深く学べる。
 しかし、と言ってよいのかどうか知らないが、福音書の三分の一くらいを占めようかという、イエスの十字架と復活の記事については、実に誌少なく、ゲッセマネの祈りを含めても、それとイエスの死、イエスの復活という、あっさりとしたタイトルとまとめ方で終わっている。私は個人的には、ここがもっと知りたい。そして、全体のバランスを欠くと思われてならない。裁判の過程や、弟子たちの反応、また復活についても様々な角度の叙述がある。それをそれぞれ一回の放送で終えてしまうというのは、無理ではないだろうか。あるいは、そこに福音書の要点を考えない、といういう姿勢の表明なのだろうか。
 そのことはこれ以上触れまい。著者は、本書のテーマあるいは意図として、放送の最終回で話した内容を「あとがき」に記している。ある方の番組への反応のお知らせを受けてのことだが、「イエスはあなたに問われている。あなたはどう答えるのか」という著者の声に、この方は「自分が安全なところにいて、批判だけしているわけにはいかなくなりました」と答えている。この受けとめ方を、著者はたいへん評価している。このような反応は、むしろクリスチャンではない方から多く寄せられ、他方クリスチャンたちからは、「難しい」とか、極端には「聖書を冒涜するものだ」とかいうのもあったのだという。
 そして、「完結した思想体系を人に押しつける形で教示することはしない」のがイエスの方法であったと理解し、つねに「相手に対する「問いかけ」として提示している」のだと捉えていることを言う。「それへの応答をむしろ相手に、その主体性と責任において提示するように促すのが、イエスの言行の特徴なのである」という聖書観を明らかにする。これは本書の全般によく現れており、著者自身がこのように考えている、という点はそのようにはっきりと言っており、この聖書箇所はこのような意味である、と決めつけたり、このように理解しなければならない、と強要するようよなふうには読めない。但し、福音書記者の編集句であろう、というあたりは、最近の研究を踏まえ、かなり一方的に告げているのではあるが、聖書をどう読むか、読み手が聖書とどのように出会うのか、ということについては、押しつけがましいところは全くない。
 だから著者の願いについては、最後にこのように記している。「本書の読者に対する私の願いは、本書を一つの手掛りとして「問いかけるイエス」に出会っていただきたいということであり、できれば読者の一人ひとりが自らの主体性と責任においてイエスの問いかけに応えてほしいということである。」
 須く、聖書を神の言葉のはたらく場、すなわち説教という場で語る者にとり、この願いを懐かない人はいないであろう。また、せっかく聖書について何らかの発言をする私のような者の思いもまた、これと違うものではないということは、ある意味で当然のことであろう。言うなれば、聖書を誰かに語るということは、この意味においてよりほかには、ありえないという、極めて当たり前のことを、本書は告げているだけなのである。その当たり前のことができる本というのは、実はそう多くない。聖書解釈や文献研究は、時代と共に変化するであろうが、このような姿勢そのものは、変わることなく受け継がれていくべきものであろうと信じてやまない。




Takapan
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