本

『イエスとパウロ』

ホンとの本

『イエスとパウロ』
G.タイセン
日本新約学会編訳
教文館
\2200+
2012.6.

 たまたま古書店で見つけたのだが、こんな本をこれまで見落としていたとは迂闊だった。日本新約学会が、学会創立50周年記念大会の特別講師としてドイツから招いたタイセンの講演をまとめたものである。ところが最後に詳しく書かれてあるように、本書は講演を日本の出版事情に合わせて選んだりまとめたりしたというのでなく、タイセン氏自身の綿密な選択と方針に従って決定された、本人の意図に完全に沿うものとして実現した本なのだそうである。会場の状況により、一般的な聴衆へ向けての内容もあり、また専門家向けの場面もあるなど様々だが、書物にする上で適宜補い、十分内容に責任のあるものとなったという。海外で翻訳されたもののちょうど百冊目だそうで、世界で注目されているその学術の業が、日本有数の神学者であり翻訳者たちが協力することでこのような形で紹介されたということは、もちろんその内容の重要性も言えるが、可能な限りの正確さと信頼とを表しているものだと言えるだろう。
 時は2010年9月、講演は新約学会のみならず、大学や各種協会などの主催の場でなされたものだが、イエスとパウロという、素朴なようでタイセンの業績としてもかつてない重みをもつテーマで語られた一連のものであった。また、書物にする上で関連した内容の論文を二つ加えているという具合に、完成度が高い。
 各章の副題は省略するが、収められた文章は、「イエスは実在したか」「遍歴教師としてのイエス」「史的イエスとケーリュグマ」を以てイエスを主題とするもの、そしてパウロ関係では「パウロの回心」「すべての国民のための教会政治家パウロ」「律法信仰から選びの確信へ」となっている。
 また、25頁ほどにわたる「序論」により、本書の副題「キリスト教の土台と建築家」という押さえ方が明確に示される。土台を据えたのは神であると言う一方、自分が土台を据えたというような言い方をする場面もあり、パウロのしたことはキリスト教にとり限りなく大きい。こうしたパウロの評価についての、とくに近代の過程を振り返り、非常に新しい見方をも挙げながら、やがてパウロ自身の置かれた立場やその経験を、ドラマチックに明らかにしていく過程を、私たちは本書で見ることになる。つまりは、この「序論」において、本書で描かれた内容がスケッチされているというわけである。そのため、読了語に再びこの「序論」を眺めてみることをお薦めする。最初にここを見たときには呑み込めなかったことが、どういうことが分かりやすくなっているはずだ。
 どのテーマにおいても、これまでの理解史を振り返り、十分な土台を構えた上で、自説を展開していくように見える。イエスの実在についての内容では、複数の資料についての理解を丁寧に説き明かすので、初心者でも安心してついていける。そして、福音書を信頼できる資料として見ることができることを示し、なおかつさらに今後も研究は発展し続けるであろうと捉える。イエスは、説教をしてまわり、癒しを実践した。これを福音書から見ていくことにより、パウロや弟子たちがどのようにメッセージを伝えていくかという展開を知ることができるであろう。私たちは、ここからいまもまた、イエスと、そして神と出会うことができるのである。
 他方パウロは、その回心の記事を見る限り、複雑な立場と心情のうちにあることを私たちは認めなければならない。単にイエスに呼ばれて従った他の弟子たちとは一線を画する。それはイエスと行動を共にしたかしないかというようなレベルの問題ではない。完全に敵対するものとして、迫害する側においてエリートであったのだ。そこからパウロが変わり、ローマ書へまで辿り着くまでには、一瞬の回心で事が説明されるものではあるまい。従来、この回心の出来事が、それが幾たびもその手紙や使徒の記録で触れられるが故に、決定的な特異な出来事として強調され過ぎた観があるものを、タイセンは人間的な、しかしなおかつ神学的な視点で、丁寧に辿る。それが後半のパウロについての話の内容となっている。
 教会政治家としてのパウロを描く中で、パウロが金銭との絡みをも含めて、エルサレム教会とどのように渡り合い、自分の意図を実現しようとしたか、交渉への準備と実際を、さも現場を見てきたかのように私たちの目の前に示す。その成功と失敗とが、パウロの辿った歩みをうまく説明するというのである。そして最後のローマ書においては、長く書かれたその論が、同じことの側面をただ記したのではなく、救いについて段階と過程を以て説明されるべきものとして、かなり詳しく説いている。これはもちろん従来も言われていたことではあったが、タイセンはその途中に変化の段階として、独自の視点を含めて示す。私たちが信仰を与えられ、信仰者として歩んでいくときの過程とも言えるものであり、ただパウロ書簡にあるというだけの客観的な代物でなく、読者一人ひとりが自分の問題として受けとめることのできる内容となっているように見える。パウロが時にまわりくどく、時にしつこく議論を繰り返す中で、確かに人間がイエスの出来事から救いを与えられるという、いまに活きる働きにぐっと寄り添って理解できる面白さがある。また、それがそもそもパウロ自身の救いの告白であり、証しであったのだというふうに捉えることもできる。この意味で辿るときにこそ、イスラエル民族の救いの問題も、異邦人とは違う形でわざわざ触れられる意義があろうというものである。
 このように理解するとき、パウロの他の書簡の意図を適切に読めるし、私たちがまた安心して聖書を読み、信仰生活を送ることができる、私は個人的にそのように受け取ることにした。これは学術云々というよりも、もっと幅広く、いわゆる福音派と呼ばれるグループにも、聞き届けられるような内容ではないだろうか。埋もれさせておくのはもったいない本である。




Takapan
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