本

『イエス伝』

ホンとの本

『イエス伝』
ルナン
津田穣訳
岩波文庫(青)810-1
\760+
1941.1.

 価格は1998年第31刷のときのものである。ということは、これはまた版を重ねて重ねてきた本であり、読まれていると理解してよいだろう。
 ルナンの本は、キリスト教の棚に並ぶことがある。カトリックから啓蒙思想に走っていき、近代合理主義の考え方を聖書に関して遂行し、その後の多くの研究者の出現を促したともいえる。19世紀を生きた人で、当時としてはまだ文献研究においても、現代ほど踏み込んだものがなく、もちろんそのようにいわば疑うという研究家がキリスト教内部には稀であったことから、ルナンの理解は、かなりの部分において想像的に留まり、十分な外的根拠をもたないようにも見受けられるが、しかし最初あるいはそれに近いあり方で、これを世に対して成し遂げるというのはやはり大きな業績であると言わざるをえないだろう。
 フランス最高の教育機関コレージュ・ド・フランスでの講義は、イエスを人間と呼んだ騒ぎで中止を余儀なくさせられるし、本書もカトリック教会からは「禁書」扱いを受けていたという。それくらい、当時としては過激な発言を含んだ著作であり、また講義であったということになる。
 確かに、当時としてはセンセーショナルなものと見えたことだろう。聖書の記述をばっさりと、それは嘘だとか事実ではないとか斬り捨て、イエスを非常に人間くさいひとりの指導者として描いているのだ。しかも、それは十分な根拠を提示しているわけではない。こうは書いてあるが、そんなことはありえないので、こういうことが本当にあって、それをこのように描いているのだ、という口調は、どこか決めつけ感が強い。ルナン自身が信じられないので、そう解釈している、ということなのではあるだろうが、聖書自体がそうだという言い方でどんどん貼り付けていくような書き方なので、キリスト教世界からすれば、甚だ憤慨する要素を備えていたし、悪魔の話すことのように思われたとて不思議ではない。
 しかし、読んでいくとこれは、ひとつの小説ならばなかなか味わいがあるものであることに気づく。それだけ、現代神学が、聖書を切り刻んで、このルナンの仮設めいた思いつきを、根拠ある説として描く様子を、私たちがあまりにも頻繁に見聞きして、すっかり慣れてしまったということを意味することなのかもしれないが、私たちはもはやこのルナンを驚かない。ただ、あくまでもこれは空想の小説のように見えて仕方がないということだけである。
 同様に弟子たちの姿も、その心に思い描くことを自由に脚色して物語る。登場人物をすべて把握し尽くした、著者が神の視点に立っていることは間違いない。すべての人物の心理も動機も、見事に暴露されているという設定である。また、さらに文明の中におけるキリスト教の価値についても自由自在に描くとくるから、教会側から禁書扱いを受けたところでやむをえないという代物であろう。
 それでも、これだけの影響を与えた人物としてのイエスを、神と呼ぶことについては拒否することはしていない。そこは、なんとか、当時の社会で生きていかなければならないルナンの弁明のようなもののようにも見える。現代だったらどうだろう。それさえも否定する声が多々ありそうだ。但し、このイエス伝には、復活は描かれない。それは物語として語ることからすら、外されてしまっているのだ。
 だから、伝統の中に位置することもできず、本書はへたをすると、教義に反するところで自由に描く小説ということで終わってしまうことになろう。
 さて、本書の訳は、文語訳の時期のものである。文語訳に馴染みがあるならば読みやすいかもしれないが、さすがにもう古文にしか見えない人々が多くなってきたのではないだろうか。おまけに、旧字体である。私は苦にはならないために恵まれている方だろうとは思うが、一般にはもうこの版では苦しいのではあるまいか。信仰者に読めと迫ることはできない作品だが、歴史的意義からしても、読み継がれていってよい作品であると感じるのであれば、そろそろ旧字体を改めた形での新版でも、用意するとよいのではないだろうか、と、いらぬお世話ばかりしたくなるものである。




Takapan
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