本

『ナザレのイエス』

ホンとの本

『ナザレのイエス』
ギュンター・ボルンカム
善野碩之助訳
新教出版社
\750
1969.4.

 ブルトマン学派に属するというが、そのブルトマンを批判する考え方をきちんと述べているのだという。訳者が最後に詳しい解説を入れている。
 もちろん本書はあのイエスについて述べている。焦点はずばりそこにしかないのだが、神の国の福音を伝える当の本人であるキリストに集中することは、確かに聖書から何かを聞こうとする者にとり必須の道であろう。
 福音だ、として聞くのはいい。だが、ひとが自分にとり福音だ、と思ったそのことを偶像にして、聖書の何もかもをその偶像に寄せて見てしまうとなると、問題が起きる。そうすると、次第にまた聖書を硬直した形で、つまり、この読み方しか許されない式に読むようになり、その読み方をしない人を排除していく、非難していくということになりかねない。実はそれこそが、ファリサイ派の陥った罠であり、イエスが心底敵と見なしたものだったのである。この構造は巧妙であるため、私たちは自分で気がつきにくいものである。いや、そこまでいかなくても、聖書的発見や研究の中で問題点が生じたときに、つねに伝統的解釈に逃げ込んでいくということもどうだろうか。つまり、自分で考え自分で決断していくということを避けて、これまで言われていたことを掲げて、昔のひとはこう言っている式にまとめてしまうのは、自分で信仰を引き受けていることとは正反対なのである。自分がどう神に向き合うか、そこから逃げてしまっていることになるのだ。
 ボルンカムは、このような偽福音的読み方を避ける。聖書を冷静に読むことを怠らない。こじつけて弁神論を振る舞うつもりはさらさらない。しかし、かといってすべてを人間的な眼差しでしか見ないということもない。しょせん文字そのものは人間が書いたものである。聖書と雖も、神の指が書いたとは言えない。人間が伝承してきたものである。そこに齟齬が生じたからといって、遠慮する必要はない。また、そこに熟慮することにより、それまで気づかせられなかった新しい光に出会えるかもしれない。
 結局、自ら神に向くという覚悟の中で聖書に挑むのでなければ、冷たい文献研究に終わってしまうのである。ボルンカムはそこまではいかない。福音書と格闘しながら、時に研究を冷静に見つめながら、また時に自らの信仰に基づいてひとつの決意のような形でイエスの言葉を受け止め、またそれに何かを返すかのようにして、読み進んでいく。執筆当時の神学的研究情況を反映しているのは当然であるとしても、それだけで説明できないような、著者と神との対話の中から生じたようなひとつの世界が見えてくるような気がするのは私だけだろうか。
 どのようにしてイエスと出会うか。出会うというのはひとつのメタファーでもある。実際に「やあ」と出会う情景を設定することはできないが、しかしある意味でそうだとも言える。それは万人に共通な公式に基づいて画一的になされるという代物でもない。その当人の自由に基づくし、そのことは神からすれば自由な選びに基づくものであるとも言えるし、しかし当人の責任によってその出会いを引き受けて、自らの歩みを決めるニュアンスがどうしても伴う。それでいて、神がそれを導くであろう。驚異的なのは、こうしたこと自体が、聖書の中に描かれているということである。どこまでもメタ構造になり得る可能性を秘めながら、聖書は私たちに常にその都度新しく迫ってくる。
 ああ、ちっとも本書の紹介にはなっていない。そこでざっと目次を振り返ると、テーマである「信仰と歴史」とを顧みる必要を示した後、ユダヤ人の歴史を概観し、ナザレにおいて始まったイエスの運動に目を移す。それは神の国の出現であったことを丁寧に辿りながら、次に神に目を向け、あるいは神とイエスや私たちとの関係を問うていく。弟子たちのありさまが気にされると、福音書の多くの部分を占める受難とそれから復活の歴史を見る。しかし、ここに多大な頁を割くのではなく、むしろ他の地上の歩みを丁寧に辿っている印象があることは、パウロ的な福音の理論や教義に頼るのではなく、やはりタイトルの通りに、ナザレのイエスについて追いかけていこうとする意図が現れていると言えるのではないかと思われる。その他幾つかの点についての論文も掲載されていて、概観の中で立ち止まりたい点が補われるといった具合である。
 半世紀を経て、また神学研究の波は変わってきているだろうし、本書のような見解が主流であるとは言えなくなっているのかもしれないが、まだまだ味わう余地は多分にあると感じる。それは、著者と一緒に、ナザレのイエスに従う弟子としての旅をしようではないかと言うことである。但し、このイエスがどんな方であったのか、その先どうなるのか、それを弁えた、いわば預言者的立場で奇妙な悟りを得たような弟子である。知ってしまった以上忘れるということはできないが、その立場から、イエスと共に旅に出るというのも、悪いことではない。そもそも福音書自体、そのような読み方をしたいものであるが、本書のようなガイドがあれば、だいぶ読みやすいことは確かである。
 ナザレから、イエスと共に歩んでみよう。




Takapan
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