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『イエス運動・マルコ・哲学』

ホンとの本

『イエス運動・マルコ・哲学』
三上真司
横浜市立大学新叢書
\3535+
2020.2.

 謎のタイトルである。だが、読み終わったらその意味が分かる。そして、率直に言うと、面白かった。わくわくした。久しぶりに、心躍る本に出会った。
 そもそもイエスを、ギリシア哲学と重ねていくという発想が無謀である。だが少なくとも、イエスの教えを受け継いで伝えていった人々は、哲学と無縁だとする理由はないとも言える。本書は、犬儒派とも呼ばれるキュニコス派の哲学者と比較するばかりでなく、事実影響があったことを想定するものであった。
 この哲学者たちは、共同体と敵対関係にあったラディカルなグループであったが、イエスの弟子たちもまた、ユダヤの共同体の外にあり、墓に集まるというつながりにより成り立つものだったのだ。
 ギリシア哲学は、それまでのギリシアの神話と伝説の考え方を「転倒」させたことを著者はイメージする。そしてマルコ福音書もまた、ユダヤ思想の中にこれをしたのである。「はじめに」で全体の要約を著者はしているが、ここでも百卒長の、神の子発言についての見解をざっくりと示している。これは嘲りだったというのである。いやいや、これは神の子だと異邦人も認めたと解釈するほうがよいのではないか、という意見の人もいるだろう。そうであればなおさら、本書を味わうべきであろう。すると、十字架に上げられることが玉座に就くことであり、マルコが書きたかった受難物語のエッセンスなのであるという著者の叫びが伝わってくることだろう。
 そして最後に、「付論」として、「空の墓で」という短文が掲載されているが、ここに来ると、一気に視界が開けるような体験を読者はするだろう。マルコが復活を描かなかったことについて、従来様々な説が出されてきた。復活部分が欠落したのではないか、という信仰的な捉え方もあれば、ここから福音書の最初に戻り、イエスとの歩みを体験せよというメッセージなのだ、とダイナミックに読む人もいる。昔の人も同様に考えたに違いなく、何かしら復活の描写を、他の福音書をまとめるような形で付け加えたらしき写本が各地で見つかっている。その続編のような部分も、何種類かあることが分かるように、今の新約聖書は見せてくれている。だが、そこでマルコの福音書がぷつりとそこで終わっている理由を見出すことはできない。
 だが本書は違う。迫害の中で孤立した人々のために、マルコはこの画期的な福音書というものを書いたのだが、私たちはどうしても、マルコ以降のマタイやルカなどの福音書により造られた既定路線のような福音書観に支配された見方しかできないようになっており、そこから逆にマルコを読もうとする目しかもてないものだから、復活物語があるはずなのに、ないのはどうしてだろう、という疑問が生ずるのである。冒頭へ戻れ、というのも、実はこの疑問から生まれた解釈にほかならない。
 そうではない。マルコは、このような形で復活を描かないことをポリシーとしたのだ。イエスの苦しみも、絶望も、迫害の嵐の中の共同体の信徒たちの苦難なのだと著者は考えている。それが、現実の危機を逃れ始めたとき、マルコの意図したのとは違う方向へ、つまり神学構築のための資料作成の如くに、他の福音書が形成されていく。そしてその流れにより、イエスの生涯や救いが教条的に定められていったのだ、とするのである。
 いったい、墓が空だったということで終わるこの福音書により、マルコは何を読者に期待していたのだろう。イエスはここにはいない。だったらおまえたちは何をするのだ。ガリラヤへ行けと若者が告げる。これは若者である。他の福音書により天使だと思い込んでいるが、マルコは天使だとは一度も書いていない。私たちが勝手に色眼鏡で天使にしか見えなくなっていたのだ。
 こうしてガリラヤに戻り、この物語を聞いた者は何をすればよいのか。イエスとの旅を思い出せというのではない。イエスの旅を歩めといったロマンティシズムに基づくメッセージではない。おまえがこの物語の続きを生きよ、と背中を押すのだ。本書はそう告げ、私たちに勇気を与える。受難物語でイエスを描くことで、マルコは十分だった。マグダラのマリアもまた躓いたのだと著者は予め論じていたので、マリアを含め、弟子たちもまた悉く躓いた。この書はすべての弟子たちに、叱咤激励をするのだった。
 マルコはローマの手の内におとなしく従うつもりはなかった。なぜかというと、「福音」という語は、ローマ皇帝のための言葉であったからだ。それを痛烈に皮肉るかのように、福音はそんなものじゃねぇとマルコは対抗したのだ、そのようなことも本論で述べていた。いつまでも墓場で礼拝などしている場合ではない。迫害はあるし、孤立もしている。だが、弱く竦んでいるだけでいるな。十字架に高く上げられたキリストこそ、王なのだ。この物語を胸に、イエスがこれからするであろうことを、おまえたちはするべく、人生を変えよ、と迫るのである。
 しかし、マルコの意図は理解されなかった。自ら望んだものではなかった呼称であるけれども「プロテスタント」という語が、元来「抵抗」や「抗議」であったことは有名であるが、そのプロテスタントが権威となり、いつしかメインの権威をもつようになって、「抗議」の意味など全く意識されないようなありかたに、つまり保守的な組織の名称へと落ち着いていったことを思い起こす。マルコは過激に抵抗して「福音」という語を弾き出したのに、それは恰も宗教的な良いメッセージであるという意味の「福音書」へと落ち着いていってしまったのだ。異端的な派、人食いの迷信と言われていたキリストの道が、やがて優等生の「宗教」へと変貌していくという方向性で、福音書の成立を捉えるべきなのではないだろうか。著者が言っているのとは少し違うかもしれないが、私はそのように受け止めた。
 面白くて仕方がない。実に刺激的だ。福音書の成立を、確かにそのようでありうるだろうというふうに、様々な文献と学説をも押さえながら、説明していく。学術的な価値をもつ十分な注釈も掲載されている。
 途中、ソクラテスやプラトンなどを交えるに、「放棄」「神の支配」「価値の転倒」という三つの論点で哲学の議論が必要になる理由をも説明し、また「悪魔祓い」をクローズアップし、神の国は終末や将来のことではなく、悪魔祓いという営みの今ここにおいて実現することなのだ、といった話も膨らんでいっていた。こうした点は、ぜひ皆さまご自身で味わって戴きたい。
 さて、福音書という次元で捉えたマルコの意気込みとその後の展開については、これでひとつスッキリするかのような道を提示してくれた本書であったが、まだこれで十分であるとは思えない。ここには、パウロがいないのである。著者はもしかすると、もう次の業績としてこれをなしているのかもしれないが、このマルコの福音書よりもパウロ書簡が先行することについての関係と影響をぜひ教えて戴きたいと思った。マルコの資料的な成立はイエスの死後間もなくである、という言い方をしており、パウロ以前に構想があったかのように示しているが、やはりパウロはマルコ福音書の成立より先なのであり、パウロによる異邦人の救いや信仰による義といったテーマと、全く無縁であったのかどうか、そうしたところも興味深い。
 こうして見てくると、聖書の内部で聖書を解釈していくのは、信仰としては悪くないかもしれないが、やはり他の文献や文化の中で、あるいはそれと比較対照しながら、新約聖書が書かれた事情を把握していくことの大切さが強く思わされる。それは私たちの信仰の内容や姿勢についても、大きな変化をもたらすことになるかもしれない。しかし書かれた真意というものについては、いくら迫ろうと努めても問題はないだろう。たんにオリジナル文献はどうであったか、ということではなく、書かれた心やその狙いということについて、もっと関心をもつ必要があるのだと迫られる思いがした。




Takapan
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