本

『イエスという男(増補改訂版)』

ホンとの本

『イエスという男(増補改訂版)』
田川健三
作品社
\2800+
2004.6.

 田川訳の新約聖書を全巻読んでおきながら、この本をまだ読んでいないというのはどうかしていると言われるかもしれないが、ネットの古書の相場も安くならない中、近所の古書店で信じられないほどの値段で投げ売りされていたので小躍りした。しかも書き込みひとつない美本。
 タイトル自体が挑戦的でもあり、著者の姿勢を強く示しているに違いないのだが、自分は「イエスを描くために此の世に生れたのかもしれない」と「あとがき」で吐露するほどに、イエスに恰も取り憑かれたようなところを見せつけられると、それだけでこの本に失礼のないように向き合わなければならないと背筋を伸ばさせられる気がした。
 著者の書きぶりに慣れないキリスト教信徒が本書を読むと、ずいぶん戸惑うだろうと思う。ギリシア語の新約聖書を穴のあくほど読み解き、それを理解するために周辺文献をも総なめにしているような生活をずっと続けて来た人である。ずいぶんと乱暴な、自信過剰な言い方のように見えるかもしれないが、どれも味わいであって、読者は精一杯楽しまなければならない。決して不遜でもないし、冒涜でもないのである。私はそう見ている。
 帯にもあるように、イエスを「歴史の先駆者」として掲げ、当時の世界の中で生きるということはどういうことか、に徹しようとする。抽象的な絵空事の教えを、聖書は説いてもいないし、イエスはそうした物語のヒーローでもないのである。だから、律法学者などの仇役についても、実のところ立派な人々であったことを前提とするが、それには私も大賛成である。そこから私は、いま立派な人々として笑顔の写真を振りまくキリスト教の指導者たちも、かの仇役の位置づけになっていてもちっともおかしくはないとさえ考えている。
 増補版になる前のものは、1980年に発行されている。それ時点で一度区切られたものとして私たちは読んでいく必要もどこかで起こるだろうが、たとえば、現実の貧しさや産業構造などを踏まえた社会への抵抗は、やはりそれまでの日本あるいは世界でのひとつの大きな波が背景にあるのかもしれない。社会的に弱い立場の者、そこへ権力者が不当な扱いで臨む、という図式も、頭に置きながら読んだほうがよい場面もあろうかと思う。
 しかし、純粋に新約聖書に描かれたその時代にタイムスリップしたかのように、その時代に降り立った気持ちで、本書をガイドとしていくというのが、一番楽しめる読み方ではないかと思う。もちろんそのためには、新約聖書について殆どその書かれてあることを知っておかなければならないだろうし、その解釈の様々なあり方や、神学的背景についてもそれなりに知見があれば、楽しみ方は倍増する。
 そもそも保守的な福音的読み方というものは、著者は相手にしていない。むしろ戦う相手は、聖書を文献として適切に読もうとする自由主義的な読み方をする学者たちである。それは聖書をちゃんと読んでいないではないか、と攻撃してくる。だから本書でも何度か、荒井献や八木誠一は、殆ど血祭りに上げられるような形で登場してくる。これも慣れない人には刺激的過ぎるが、著者はこのようなはっきりと物を言うというだけのことであり、そのための根拠を用意した上で言っているので、決して誹謗中傷ではない。むしろ学問というのはそうあるべきものだという見本のようなものであろうか。
 イエスは、ローマの支配では人の救いはないとするし、ユダヤの支配体制にも刃向かう。そして社会的経済的構造をもあばくし、宗教的熱狂と宗教批判との間にも立つ。そうしたことを、新約聖書の記事を徹底的に読み込んで貫こうとするのであるから、1冊の本にかけたエネルギーは驚くほどのものであるはずである。こうした本を何冊も、それぞれの論ずるテーマを替えて著しているのだから、もう超人的と言わざるを得ない。
 しかしただ吠えているわけではない。本書の、というか著者の優れたところの一つとして、索引が作られていることである。論じているのを読んでいるときには夢中で読んでいたにしても、どこにあのことが書いてあったか、後で調べようとしてもなかなか分からないことが多い。どこかにあった、では活用もできない。索引というのは、聖書について論じた本には悉く必要だと私は思うが、決してすべての本に付けられていることはない。本書は、事項と、聖書箇所について、少しの頁ではあるが、索引が設けられている。ここに誠実さを私は見る。また、「あとがき」を見ると、視覚障害者のために朗読の吹き込みを試みている。それがその後できたのかどうか知らないが、少なくともそれを実行している方々へのリスペクトで締めくくっている。こうした姿勢こそ、聖書を読む人の生き方のひとつの筋であろうと私は考えている。
 最後に、悪霊に取り憑かれた人が続出している福音書の記事について、当時の社会で生活していれば、精神的にどうかなるというのは当然と言ってもよいことなのではないか、という想像を巡らせているところに触れる。このくらいの想像力でもいい。私たちが聖書を読むときに、そこに生きた人の心のことを、考えるべきなのではないか。私たちがいまの世界を生きているように、かの人々は、かの世界を生きたのである。そこで見るもの、考えを支配する常識、価値観や生活苦、その場所を想像することなしには、聖書の言葉は、近代人の病である自己中心のための道具になりかねないと思う。私たちの病とは何か、聖書の世界に場所を移したときに見えるものから、私たち自身を知ろうとしなければならないのではないか、と問いかけられるような気がしてならない。田川氏の意図はそんなところにはないかとは思うが、私の問いとしてみたい。




Takapan
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