本

『イエス』

ホンとの本

『イエス』
シャルル・ペロ
支倉崇晴・堤安紀訳
白水社文庫クセジュ1000
\1200+
2015.4.

 実にシンプルなタイトルである。本はかくありたい、とも思うが、これでは何を描いているのか、特徴は何であるのか、分からない。しかしここには、文庫クセジュの思い入れがあった。シリーズの1000冊目なのである。
 そもそもクセジュとは何か、と思う方もいるだろうか。その昔は、日本の本好きのためには有名なステイタスだった。フランスでの岩波新書と言うと語弊があるかもしれないが、モンテーニュの「私は何を知るか」に由来する、フランスでの定評あるシリーズである。それを日本の白水社が日本語版として翻訳したもののうち、1000冊目がこれであるのだ。それに相応しいものとして、この『イエス』が取り上げられたのである。その翻訳にまつわるドラマは、「訳者あとがき」をご覧戴きたい。いろいろな背景があるものである。
 さて、本書の執筆者は、神学者であるが、カトリック司祭でもある。そのため、カトリックの教義が強調されるのかしら、と警戒したが、それは殆どまず気にする必要がなかった。日本人司祭の神学者の中には、プロテスタントを目の敵にして吠えるタイプの人もいたし、それを表に出さなくとも、内心そう構えながら書くタイプの人もいると思う。もちろん悪気はないのだ。
 本書はまずは、資料性に対して目を開かせてくれる。文献の発見も、この百年ほどで相次いでいる。聖書そのものではなくとも、関連書の発見と研究は、聖書世界を理解するのに豊かに働いている。考古学の貢献も大きい。こうした研究者としての姿勢が最初に示されると共に、著述の随所で触れられている。これはかなり信頼のおける態度である。しかも、プロテスタントの神学者が、百年前の神学者の発言や解釈を、いまなお最重要な掛け軸の言葉のように持ち出すことがよくあるのに対して、こちらは文献と周辺研究の成果をどんどん取り入れていく。そのため、聞き馴染んだ学説が、いまの資料では覆されているのだというような指摘も目に入ってきた。
 本書は1998年が原著の初版だそうである。しかし、この訳は2014年の第六版からなされたという。普通なら増補や誤字訂正などで版が重ねられていくと思いがちだが、訳者は驚いている。第六版出版の前年に現著者は亡くなっているのだが、この最終版は、初版に比べて全体が四分の三くらいの量になり、しかも加筆されたものも多いのだという。こうなると、これはかつての研究成果を保りたいと思っての本ではなくて、常に最新の情報と学術のもたらしたものを、読者に提供しようと心がけられていたのだということになる。これが、私が信頼を置く、ひとつの理由である。半世紀前の自分の論文内容をいまなお頑固に主張する神学者も見かける中で、この、学への献身は、なかなかのものである。
 全体の三分の一は、このような研究方法の提示に徹し、ようやくイエスの生涯が始まる。生誕から死と復活までを辿るようにして、聖書の細かな読み方を、資料に基づいて教えてくれるのであるが、時折はっとさせる文に出会う。たとえば、生誕記事の中に「キリスト教信仰は、復活者の十字架の出来事の中に根付いているのであって、彼の幼少期の驚嘆すべき物語の中にではない」と書いてあるのを見かけた。私もそうだと思う。しばらくすると「ひとつの宗教的な理想として提示された清さのしきたりが、すみやかに当時の宗教社会をいかに分断するかに至ったか」という問題点が指摘してある。現代風な「分断」という言葉ではあるが、著者は2020年辺りの時代を知るわけではない。人間世界に、宗教そのものが分断をつくっていることを認める必要があることを踏まえて、聖書を解説しているように思われてならない。その分断、断絶は、実は「罪」というものがもたらすはずのものである。それは神との間にでもあるし、人に対して、また自分自身に対しても、断絶と分裂をもたらすものであると迫ってくると、これはもうひとつの説教のようにすら感じられてくる。先の清めについても、「水はこの赦しを目ざし、洗礼の行為は終末の時の救いを呼ぶものである」とし、はっきりと見るべき目標を見定めていることが伝わってくる。読んでいて、励まされることが多い。
 ギリシア語やヘブライ語はもちろん、アラム語や周辺の語も取り入れて、説得力のある語義の分析をも見せてくれる。ローマ帝国における常識というようなものも的確に紹介され、聖書を知ることが、ただの言葉の空想ではないことを思い知らされる。ローマ人はどう考え、ローマの生活習慣がどうであったか、を知ることによって、聖書の記述の意味が、生活感覚で、すなわちいまここで生きている中でどう受け止められるかという問題について、生々しい実感を与えてくれることもあるのだ。
 だから、十字架刑というもの自体、当時ありふれた死刑であったことも、改めて心に刻まれるものである。十字架が救うのではない、と聖書の言葉遣いを根拠に主張する学者もいるが、十字架刑がありきたりのものであったことからすれば、当然である。イエスが死んだこと、それが当時誰もが忌避した十字架という刑であったこと、これらが結びつくことなしには、人類のすべてを救う壮大な出来事は起こらないであろう。そして復活についても、ユダヤ人全部ではないが、復活を希望していた背景の中に入ってみなければ、分からない。聖書の、また特にパウロの書いたもののギリシア語を解釈して、復活があるとかないとか言っている場合ではないのである。政治を賄っていたグループは、復活はないという立場であったようだが、大衆的には、復活が信じられていた。それは旧約聖書続編の中でほぼ明らかになっている。あの、マルタが、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」(ヨハネ11:24)と言った言葉を忘れてはいけない。これが、時の人々の復活の信仰だったのである。だのに、その想定された「終わりの日」ではないときに、イエスだけが復活したというのである。ユダヤの人々は、死者が復活したことに驚いたのではない。ギリシア人ならこれで驚くが、ユダヤ人はそうではない。終末の復活を待たずに、イエスが復活したというのは、理に合わなかったのである。
 いや、口がどんどん滑って言った。この最後のところは、私の独断である。私の解釈であり、私の信仰である。しかし著者はそれをにこやかに見守り、包んでくれるような気がする。なにしろイエスがなおも「生きている」のも、「信仰による断言」だとしているのだから、それを私がひとつの形にしたとしたら、それはそれでよいと言ってくれるのではないだろうか。「復活信仰は、少なくとも信仰者にとっては、イエスの歴史と、そしてまた自分自身の歴史と関わる」というのが、著者の大切なテーゼであるように、私は読み取った。
 だから著者は、最後に読者に問う。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。日本での1000冊目に相応しい作品であった。




Takapan
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