本

『イエスの福音』

ホンとの本

『イエスの福音』
ジョン・F・マッカーサーJr.
岡田大輔・伊藤敦子訳
創英社・三省堂書店
\2000
2010.12.

 しっかりした紙が使ってあり、装丁が美しい。発行社と出版社とが並列記されている。しかし、キリスト教書店のほかにどれほど出回っているのか、私には分からない。
 サブタイトルに「イエスが語った救いのメッセージとは」とある。邦訳責任は、浜寺聖書学院というところにあり、その学院長が挨拶を加えているが、訳者による解説などは見当たらない。浜寺というと、大阪の堺、南海沿線の町である。浜寺聖書教会という教会があり、訳者である岡田氏はその教会の牧師であるようだ。
 聖書に関して保守的な部分が強いようだが、なにもおかしなところであるとは思えない。福音を語る教会であるだけに、このようなタイトルの本が出せるのだろうと思う。
 横書きで、元のアメリカの本の形に近いのではないかと思われる。註釈や引用があるため、横書きは馴染むようにも見える。
 さて、350頁余りを数えるこの大きな本だが、ひじょうに読みやすい。聖書について一定の知識のある方や、教会の説教を聞き慣れている方にとっては、すらすらと読んでいけるだろう。そして、その理由は、この本が言おうとしていることがただ一つしかない、ということである。ある意味で、最初のいくらかを読んで理解すれば、あとは極端に言えば読まずとも、この本のもつ主張は受け止められたということになるであろう。
 ここでそれを言ってしまうのは、身も蓋もないことになるだろうか。そこで、ぼんやりと焦点をぼかしながらお話ししてみようかと思う。
 それは、イエスの伝えようとする福音であることはタイトルの通りなのであるが、その福音を、信じれば誰でも救われる、で終わりにすることへの強烈な抵抗である。たしかに、それはある意味で正しい。嘘ではない。だが、「私は信じましたよ」と言ったところで、それ以前の生活と何も変わらない人生を続けていくということでよいのだろうか、という疑問が起こって然るべきである。いろいろ例を挙げると差し障りがあるかもしれないが、たとえばそれまで人を騙して脅し金を強奪する悪事をしていたとする。そこで、信じれば天国に行けると聞いたもので、信じます、と告白した。するとその教会の牧師が、あなたは救われました、と励ます。そこで、この人は喜んで、ますます元気よく人を騙し金を巻き上げ続けた、とあって、果たしてそれでよいのだろうか、ということである。
 しかし、善い行いをしたから救われます、とすることは、聖書が抵抗しているように見える。とくにプロテスタントでは、ルターが、人は信仰により救われるのであって、行いによるのではない、と強調したこともあり、人が何かをしたから救われるという教えではないのだ、という底辺は徹底している。これらのバランスが問われるわけである。そう、ルターはヤコブ書がそのような言い方をしているような部分を毛嫌いしてさえいるのだ。
 この本は、そこを調停する。行いが救いのために必要なのではない。しかし、救われたものは行いが変わるはずだ、と示そうとするために、これだけの長い著述を必要としたのだ。逆に言えば、救われた後に、行いが変わらないとすれば、それは救われたことにならない可能性が高いというところまで踏み込んでいく。もちろん、人の救いについては、人が判断したり決めたりすることはできない。審くのは神であって、人が審くのではない。しかし、神の救いを得て喜びを得たのであれば、必ずや生活や生き方に変化があり、キリストのように変えられていくはずなのだ、とするのである。
 人は、キリストになりきることはできない。何もクリスチャンが、聖人君子になれるとか、ならなければだめだとか、そういうつもりは著者にはもちろんない。ただ、良い実を結ぶというキリストの言葉をも蔑ろにはしない。そうである。著者は、自分の信念や思い込みでこのように主張するのではない。聖書の端々に、イエスがそのように言っているという部分を丁寧に拾い上げるのだ。その引用たるや半端ではない。いくつかのエピソードをテーマ別に拾い上げながら、その作業を延々と行う。その努力たるや半端ではない。
 私は、そのテーマの中で、「奴隷」というテーマに、個人的に非常に教えられるところがあった。読んでいく中で、その記述のままにとは限らず、様々な聖書とのリンクを感じて、自分なりに思うひとつの世界が築かれていった。このように、インスピレーションを与えてくれるという意味では、このような回りくどいような丁寧な言及は有難い。私の場合はそうであったが、多くの読者にとり、似た経験はありうると思う。それは、ひとつの筋道がはっきりしているからだ。著者の本音というものが明らかだからだ。その中で、聖書を様々な角度から照らす光を受けて、私たちは、改めて聖書を深く知っていく、つまりは神の心を感じていくという経験をするのである。
 著者の意見にそのまま従う必要はない。もちろん従ってもよいが、著者を信仰するのが私たちの仕事ではない。著者の調査を通じて、聖書を信じるようになればよいのである。聖書を、そして聖書の真の著者である神を信じるようになることが、こうした本を通して私たちが受ける恵みである。
 本を拝む必要はない。だが、本を通して、恵みを受ける。そうした経験を私たちが得られたら、それは私たちの幸福だとは言えないだろうか。




Takapan
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