本

『イエスの誕生』

ホンとの本

『イエスの誕生』
中道基夫編
キリスト新聞社
\2200+
2005.10.

 クリスマスの説教が集められている本。ほかにある個人の説教集と、それからドイツのそれとを私は読んだことがあり、それぞれにたくさんの恵みを戴いたのだが、今回は、ちょっと打ちのめされたという感覚に近いものを覚えた。一人の著者のものだと、言わんとしていることが次第にだいたい方向付けられてくるものであるが、これは多くの人のものが一人ひとつとして集められており、出会う説教ごとに新鮮な風が吹いてくる。つまり一つひとつ始まるたびに、強い緊張感を覚える。この人は何を言うのだろう、どんなところに連れて行ってくれるのだろう、というように。こうして、選び抜かれたものであるのたろう、一つひとつの説教が、思いも及ばぬ視点を提供してくれ、新たな発見をすることができたという点では、まことに感慨深いものがある。
 発行は2005年。いまほどインターネットの恩恵を味わっていた時期ではなかったように思うが、そのせいかどうだか知らないが、私は寡聞にして、この本の存在を知らなかった。例によって最近、本の通販サイトでいろいろ調べているうちに出会って知ったのである。いま各方面で活躍中の方の名前があり、その方の考え方も好きだったので、常日頃説教に触れておかないと息苦しくなる私としては、日々の説教読書のために購入したのであった。そうしたら、打ちのめされたのである。
 クリスマスだからといって、マタイやルカ、ヨハネの冒頭やイザヤ、そんなところからばかり引いてくるとは限らない。どうしてそこからクリスマスなのか、というほど奥深く、クリスマスの恵みが注いでくる。すっかりお祭りとなってしまったクリスマスであるが、日本でもこの騒ぎは百年級の騒ぎなのだという。とくに戦前の乱痴気ぶりはひどかったらしい。クリスチャンはこうした日本人の無礼講を尻目に、冷ややかな眼差しをもつことさえあるし、本物のクリスマスはこれだ、と教会をアピールすることもあるだろう。それでもなお、教会でもツリーを飾り、プレゼント交換や楽しい催しをもする。それをまた骨抜きにされていると危機感を警告する声もあるし、また逆にこれを機会に伝道しようと励む空気もある。
 どれもよいのだ。ただ、改めて思う。クリスマスを私たちは、何か「利用」しようとしていないか。クリスマスは、ひたすら「受ける」ことを知る時ではなかったのだろうか。私たちは静まり、聖書からことばを受けたいし、自分が神から受けたことへ思いを沈潜させていたい。神と自分とのこよなくプライベートな時空の中に浸りたい。本書のメッセージの数々から示唆を受けるのは、たとえばそのような省みである。
 一日ひとつ。説教集は読み急がず、日々の糧として味わっていくようにしている。そのほうが、その一日を温かく過ごしていけると思うので。アドヴェント・チョコを子どもが毎日楽しみにして窓を開けるように(もともとはただのカレンダーであってよいわけだが)、おとなも、こうしたアドヴェントの迎え方をするのは如何だろううか。毎日数分間の恵みとして。




Takapan
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