本

『イエス入門』

ホンとの本

『イエス入門』
リチャード・ボウカム
山口希生・横田法路訳
新教出版社
\1995
2013.6.

 実は『イエスとその目撃者たち』という本が気になっていた。読みたいが、なにせ高い。それだけ出す値打ちがあるかどうか、考えあぐねていた。そこへ、その簡略版のようなものが出るということを知り、こちらを先に読んでみることにした。筆者の考えを知るのに適切かと思ったのだ。ふれこみもまた、先の大著をコンパクトにした一面がある、ということだったので、恰好のものだった。小さな本のわりに若干高価に感じないこともないが、まずはそういうものだろうと思われた。
 入門という言葉は、いかにも初心者のためのもののように聞こえる。しかし、事実入門がそのような、そのことをまるで知らない人のためにあるようなものである場合もあるけれども、この本は必ずしもそうとは思われなかった。
 聖書にはこう書いてあります。このようなことがありました。そういう羅列ではないのである。ひとつひとつの項目が、筆者の神学を踏まえて選ばれ、組まれている。そして、語られている。そこに安易さはない。それは、これまで聖書をよく知る人にとっても惹き入れる魅力が十分にあるものと思われた。
 著者の視点は、イエスの時代当時に、イエスを目撃するというところにある。その場に自分がいたらどう見ていただろうか、またその場にいたからこそ弟子たちはそれを書き留めたのだ、ということである。それは単に、弟子たちの信仰を映しただけの記述だとも思えないとし、そこに生きていたとしたら何が見えて何が見えていなかっただろうか、ということも踏まえて想像の翼を拡げる。その結果、基本的に、聖書に書かれてあることを殊更に疑わず、それは証言の集大成のようなものであるという理解を示す。福音書により指摘が違うことは、複数の視座があるかぎり当然のものとさえする。それは私も同感だ。歴史の記述がひととおりに定まるのであれば、世にこれだけの歴史書など要らない。現代のニュースでさえ、新聞社によりこれほど異なるのである。異なる記事が存在するから、その事件は嘘だったのか、なかったのか、創作なのか、などという理屈が通らないように、聖書の背景にも、確固たる事実があったからこそイエスが描かれている。そしてそれは、それを見聞きした人物の立場や視座によって、描写が異なってくるものだろう。イエスは、そのように見られていた、という記録がここに残っているのである。
 私の心に強く残ったところを少しだけ拾う。
 まず、イエスの譬えや婉曲な表現に対するボウカムの意見。聞き手が言葉を受け止めて、その意味を「考える間」をつくりだした効果があったのだという。言葉が情報として飛び交い、ゆっくり噛みしめるような思索が乏しくなった、あるいは欠落してしまってきたこの時代に、私たちは、イエスの言葉を反芻し自分の中に深めていくゆとりをも、見失ってしまったのではないか。イエスは「間」を要求している。ありきたりの常識とやらに疑問をもつ「あそび」のゆとりをも、欠いてしまえば、実は危険極まりないことだろう。
 また、「主を愛せ」という根本の掟をイエスは挙げているが、実のところトーラー全体の中で、「あなたは愛しなさい」と命じているのは、四ヶ所しかないのだという。イエスはそのうちの二つを取り出して、律法の根本だと指摘した。それは、単に好きだとか惹かれるとかいう意味ではない。意思と行動の問題なのだ、と著者は言う。自分の中にそのような動機がつくられなければ、これは全うできない。イエスはこのようにして、律法を完成している。律法を無視して、律法に刃向かっているのでは決してない。
 それから、イエスたちは弟子たちに主人となるような地位を与えなかった、という指摘がある。社会的地位の最底辺たる奴隷の地位に下らせるという命令を下したのである。奴隷の身になれば、自分が他人よりも偉いなどと思うことはないだろう。子どものようになる、というのもまさにその次元の視野から見えてくる言葉となる。神の国をこの貧しい民の中に見出す、それが当時いかに不思議な説であったか、それが人々にどう受け取られたのか、そういう疑問を持ちつつ、私たちの常識に基づいてでなく、聖書を捉えていく必要があるものだろう。また、そうでないと、聖書のメッセージを受け取ることができなくなるであろう。
 読み進んで、すっきりと分かるという感覚がもてない。だが、著者自身が迷いに迷っているのでもないことはもちろん分かる。「入門」どころか、これは門に入った後の実に奥深い探索を私たちに要求している。噛みしめて読むべきである。気軽に読み飛ばすものではない。そして、イエスという方を読み解くには、そのようにしなければ近づけないのである。どこかで軽く触れるにせよ、それでイエスが分かった、などと膝を叩いて済む問題ではないのだ。この本は、そういうところも教えてくれる。
 なお、訳者の一人は、福岡の教会の牧師である。実際に知っている方でもある。海外を含め活躍しているとのことだが、著者の来日のときにも役立つ仕事をしていたと思う。実際、著者のもとで博士論文を認めたというから、訳者としてはまさに適役であったことだろう。現代に力をもつ神学者を紹介するために重要な役割を果たしていることになる。これからの活躍をも願いたい。




Takapan
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