本

『その日本語が毒になる!』

ホンとの本

『その日本語が毒になる!』
吉村達也
PHP新書521
\735
2008.5

 私自身が吐く言葉が毒だらけだなあという思いで、これは自分の悪いところが並べ立てられているぞという気持ちを抱きながら本を開いた。
 たしかに、痛いところもあった。見透かされているな、とも思い始めた。だから、最初に、ちょっと胡散臭い本かもしれない、という疑いは、次第になくなっていった。むしろ、私はこの著者の書いているときの姿が、自分の思いや行動と重なってくるように思われて仕方がなかった。「分かる」などと言うとおこがましいが、見るために立っている場所や、見える景色に、自分と共通のものを強く感じ始めたのである。
 私たちがちょっとしたときによく使う言い回し、それからしばしば耳に聞く言い回しが、いったいどういう心理から発せられているのか、そしてそれを聞く側はどのような感情でそれを受けとめるのか、そうしたことが、様々な例とともに挙げられていく。
 読者のお楽しみのためでもあり、その例や細かな論点については、ここではまったく触れないで進もうと思う。
 はたして、著者が捉えているように、日本語そのものにそうした機能がないと言うべきなのか、日本人の思考にそうした機能がなかったから、日本語にならなかったのか、その辺りは紙一重だろうし、卵が先か鶏が先かという問題に共通する問題点があるのではないかと思われる。ただ、著者が、日本語をどう捉え使っていくのかに関心を払うということが、人間の姿を変えていく、というのはたしかにそうなのだろうと感じた。
 最後の、人生をスキー滑降にたとえた話は面白かった。さらに、天国を考えることの意味を説くのも、微笑ましく受け取った。
 自分の中にはあらゆる性格や考え方が潜んでいるから、小説を書くときに人物をどう描くかという問題は、著者はさして苦労はしないものらしい。だから人間取材などしない云々という説明か弁明かが記されていた。人間取材などをする必要がない、という意見が載せられていた。なお著者が、自分の中にあらゆる性格があるからだという意味のことを記した箇所があった。
 立場によりやはり分かりづらいところはあるだろうが、人の心というのはあらゆる要素が自分の中にあるはずだ、というふうな意味のことが書かれているところがあった。
 様々な要素が心にあることはそれはそれでいいと思う。しかし、立場や経験が心をつくっていくというのも本当のことだ。それは、人間の中にあらゆる要素があるからというのではなくて、そういう立場や地位になったときに、心の要素が生まれるということもあるだろうと思ったのだ。子育ての経験がないとき、子育ての場面から教えられる体験的発見は、やはりないと言わざるをえない。それも想像すればできる、と言うが、その徹底的にとある立場に立つこと、なりきることは、やはりいくらかでもの体験を伴うものである。その仕事場の空気を嗅ぐだけでも、何かを得ることもあるのだ。
 言葉には毒がある。二枚舌という言葉があるし、舌は両刃の剣だという認識も聖書になされている。優しい言葉を発するその舌が、同時に人を呪うのである。また、毒のない言葉もまた、心の伴わない形式だけの無内容なものだ、という指摘もある。毒をもつことを正当化するだけのものでないとすれば、これらの説明には意味がある。
 時には、敢えて毒をもたせなければ通じないことがある、というのも本当だ。もちろん、ただ奇を衒うだけのものも、印象はよろしくないものだが。
 抽象的なものを並べるに留まらず、楽しく読める本文に触れてみることをお勧めする。




Takapan
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