本

『日本人の発想、日本語の表現』

ホンとの本

『日本人の発想、日本語の表現』
森田良行
中公新書1416
\700+
1998.5.

 少し以前のものを読んだことになる。ある本で推薦されていたものだ。新書という制約はあるが、だからこそ門外漢にも分かりやすく書かれているはずで、日本語を深く研究し、また教えている方が説いた、日本語独特の捉え方に対するひとつの意見であった。副題には、「私」の立場がことばを決める、と書いてあった。これでは中身がまだ見えない感じがするが、要するにその点が強調されているのは確かである。
 全体的には実例が豊富で、日本語の言い回しがなるほどそのようであると反省させられるものであった。「ひと」と呼ぶ中に、自分のことは除外しているという前提がある、あるいは自分たちを除外していると言ってもよいが、内と外との対立を社会学的に述べた人はいたものの、日本語そのものの構造として、使用法としてこれを表に出すというのは面白い。そうしたあり方から、主観である自分を、客観世界に属するものという視点をとっていないスタンスというものがはっきりしてくる。
 こうした筆者の主張を、文法的なあらゆる場面から、そしてまた生活場面からつないで説明しようとしてくるもので、すんなり読んでいくとそのワールドにすっかり取り入れられてしまいそうである。確かに日本語の言い回しは、英語とは比較にならないくらい変化に富む。ちょっとした助詞の挟み方や間投詞の用い方で、ニュアンスが変わってきてしまうのであるが、こうした点を集めることは、日本語を教えるという立場から得たものでもあるだろう。外国人からの質問にはっとさせられるということはありそうだ。
 情意を表す副詞が如何に豊富か、否定表現が否定になっていないような扱い方は論理的というよりは感情的なものであるなど、言われてみるとなるほど、論理を示すというよりも、共感を求めたり気持ちを分かってくれというようなものが、言葉の端々に溢れていて、言葉というのは論理を運ぶ道具であるというよりは、明らかに心を運ぶものであるように用いられているというふうに思えてくる。日本語だけがそうなのかどうか、そこまでを本書に求めることはできないが、少なくとも西欧語と比較してはずいぶんと違うことに気づかされる。
 自らが行為して何かをするというよりは、自然になるという趣を重んじる、あるいは好んで使う用法が豊かであるなど、ここで実例を一つ二つ挙げるよりは、豊富な例示を本書で楽しんでもらえたらと思う。そして、西欧文法を当てはめて理解することの限界というか、無理さを次第に感じるようになるであろうことも付け加えておく。
 だからどうするのか。著者は小さなこの書でそこまでは言おうとしていない。ただ、気になるのは、こうした日本語にマイナスイメージを持たせるような方向で話をすることが多いことだ。いろいろな指摘は面白い。確かにそうだと思えることもたくさんある。しかし、英語などに比較してのそれらの不思議さ、つまり他の言語を知ることにより日本語の特徴を改めて自覚するという営みの中で、どうも日本語はいけないものだという印象をもつように仕向けられているとしたら、残念でならない。違いは違いでいい。しかしそれは優劣でもなければ、是非でもない。タイトルどおり、日本人の発想が生活などあらゆる面に言語と関係があるのではないかという筆者の気持ちは、訝しく思うまでもなくそうだろう。思考が言語によるものである限り、言語は思考を基礎づける。それどころか、思考する形が言語となって現れると言ってもよいだろう。言語と思考とは、つまり生活全般とは、関係があって至極当然なのである。タイトルはそれでいいが、あとがきにあるように、これを窮屈で不自由な思想だと嘆く必要はないと思うし、中途から強く主張しているように日本語がまず全体の枠をとってそこから細かく規定していくような方向にあることを以て閉鎖的と批評する必要もないと思う。そこにむしろ、西欧語からは見えてこない風景があってよいし、私たちの哲学が生まれてもよいだろう。卑下するのは、一定の価値観に基づいているからであって、まさにそれは違いであってよいのだ。すでに西欧ではそのような日本語と日本文化のもつ何かに気づいているからこそ、東洋の神秘が受け容れられているのであろう。欧化する日本を求めているというよりも、欧米にはないものがあると感じ取られているからこその日本とのつきあいなのではないだろうか。むしろ、追従することだけが日本語と日本文化の役割ではないだろう。いま新たな文化の発信としても何かしら西欧にないものが伝わっているのであろうが、そうした中に、この日本語の発想というものはどのように潜んでいるだろうか。かつての日本語や生活様式の中での発想は本書の指摘のようであってよいとして、では現在の日本の発想はどうなっているであろうか。現在から未来へ、この日本語のもつ力は何であろうか、著者もまた挑んで戴けたらと願う。




Takapan
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