本

『なぜ日本の若者は自立できないのか』

ホンとの本

『なぜ日本の若者は自立できないのか』
岡田尊司
小学館
\1365
2010.12.

 関心を呼ぶタイトルである。そして、この本の表紙、インパクトがある。白地に、かなりでかいゴシック系の活字で、四行に分け、殆ど全面をこのタイトルの文字で占めているからだ。こういう表紙、どこかで見たような気がする、とぼんやり考えていたら、思い当たった。ベストセラーの、『これからの「正義」の話をしよう』だ。活字の方向が縦書きか横書きかの違いはあるが、これはそっくりだ。もしも、正義の本など意識していない、などと言い訳してきたら、嗤ってあげよう。そんなはずは、ないからだ。
 精神医としては、そういう効果もあって、タイトルの言葉や、デザインをうまく配置したというわけだろうか。
 さて、内容であるが、タイトルに惹かれて開いたところ、どうも違和感を覚えてしまうのだった。どうしてかなあ、とこれまたぼんやり考えていたが、あまり気にせずに読んでいくことにした。いわば心を病むと言われる若者を相手にしている故だろう、著者は、いきなり残酷な事件から本を始める。絶望的な状況をまず示しておき、そこから救われるにはどうすればよいか、を拓いていく――これも、意識してかせずか知らないが、説得させるための方策であろう。しばらく第一章で、日本の世間で耳にする、若者や教育の現状の問題点を立て続けに並べて、このままではいけない、という気に、読者をさせてしまおうとする。
 そこへ、著者の救いの発端が紹介される。それによると、「視覚空間型」や「聴覚原語型」「視覚言語型」というふうに、子どもはタイプが分かれるそうである。それぞれには、それぞれに応じた教育方法があるべきなのに、今の教育では、すべてが画一的に扱われる。これで子どもたちの能力が伸ばせない、と主張してくる。これで、だいたい以後の路線がはっきりしてくる。これら三つの型にはどのようなタイプの人物がいるか、ジョブズや本田、オバマからゲイツや井深と、大成功した有名人の生い立ちから、典型的な部分を長く引いてくる。これで、人類はこの三つの型に当てはまるというふうに、読者は洗脳されていく。
 次に、海外の教育制度を示す。かなり詳しいレポートである。オランダ、フィンランド、ドイツ、イギリス、スイス、アメリカ、台湾、韓国と続く。当然、フィンランドという今注目の国は、かなりの分量を割いている。概ね、いま成功と見られるこうした制度については、非常に肯定的で、露骨にそれが理想だと言ってしまうことはないが、自説のように子どもの個性に応じた教育をしていくことで、実は学力もついていくし子どもたちは生き生きとしていけるという図式を、読者の心に刷り込んでいく。アジアの国は、旧来の日本に近いというふうなイメージで簡単に終わるので、欧米の肯定感が印象に残る。
 そうして、日本の教育が講義暗記型であることに元凶がある、という佳境に入る。最大の敵はこれなのだ、と奥義を明らかにするのだ。受験戦争、点数主義など、マスコミで言われたことがあるような言葉は、すべてこの憎むべき敵であり、著者の教えに従えば、それらはすべて解決できる、という方向を、はっきり語らずして用意する。
 ここまで十分な準備をしてから、最後に、日本の再生には教育が必要であり、それは自分が唱えるような、理想の教育であるべきだということを、殆ど根拠なしに並べていく。すでに洗脳された読者は、もうそこにしか救いがないと感じるようになっており、もう誘導されていることにすら気がつくことなく、読者自ら真理を見いだしたかのように思いなすという心理的働きと共に、著者の教えに従おうとする。まさに、これは尊者だ、と。
 ちょっと聞くと、著者の言う通りのような気がしてくる、そういうふうに本が書かれている。だが、たとえば、この教育の問題が、はたして教育制度だけで動くことができるものなのか、極めて怪しい。他国の例が、欧米ばかりであった点に注意すべきである。それは、日本の風土とは違う宗教や伝統に立つ国々であり、社会制度も、あるいはお望みなら、狩猟民族と農耕民族という性格まで持ち出してもよいのだが、語族の違いも加えて、精神構造がずいぶん異なると言ってよい。彼らが個人主義に至るには、それなりの風土や歴史があったのであり、彼らの肌に合った形で行われている教育制度が、そのまま日本に移し替えてその挿し木が成功するかどうかは、分からないとしなければならないであろう。だが、著者は、もはやそこにしか救いがない、という道に読者を誘い込んでいる。そもそも社会的背景が違う中で、たとえばどうして講義暗記型が日本に根付いたのか、という分析が求められて然るべきであろうし、集団的教育が何故望まれたか、にも背景があるはずだ。欧米列強に追いつきたいという開国以来の流れの中で見いだされたのかもしれないが、農耕的協力が求められる世間をもつ日本においては、画一であることは、必要であったからそうなったのであろう。果たして、冒頭にある凶悪な少年犯罪が、画一的教育のせいであるのか、またたとえそうであったとしても、社会問題として浮かび上がってくる青年の問題が、まるで画一的教育のせいであるかのようにしてしまうのは、フェアでないのではあるまいか。
 マスコミが時に煽るようにして持ち出す言葉を、すべて自分の味方にしていこうとするような書きぶりであるが、ていねいにたどっていけば、本当にそうなのか根拠が定かでない点ばかりである。もしかすると、この人が言うように、ひとりひとりの個性に合わせた(つもりの)教育制度ができたとしたら、もっと悲惨な凶悪犯罪が増えていくのではないという懸念は、ないのだろうか。アメリカで幾度も耳にする、銃乱射のようなことが、増加する虞は、本当にないのだろうか。
 最後のところでは、きわめて曖昧な受験制度を、著者は提案している。合格不合格は、決して点数にはよらないのだというのだから。理性に従うよりも、身内や空気といったものを原理として動いていくこの国の風土がそれをしたら、もうめちゃくちゃになりはしないだろうか。欧米で、点数によらない制度が成功しているのは、その背後に神的な存在がどこか感じられ、人はそれに従わなければならないという原理が、人とは違うところに頑として存在しているからではないだろうか。すでに、推薦入試という制度の中に、曖昧で恣意的なものが発覚しているし、子どもたちは先生の前でよい子になろうとして苦しんでいるのではないだろうか。また、早くから適性を判別して、職業教育の価値高め、職業別に教育を施すべきだ、という強い主張が繰り返しなされているが、職業選択の自由がある中で、これは辛い。親や親方など、一定の資本や地位が確定していた昔の時代と異なり、それぞれが一から職業を構築していくよう求められている社会基盤である。小さなうちに職業を決定するべきだという提案は、自由の深淵に対して抱く不安の解消にはなるかもしれないが、自由市場において、もしまたその職業が遂行できない事情になったら、他の職へ転換できない困難を呼ぶことになりはしないか。生涯野球界で活躍できる才能のある者は恵まれてよいだろうが、野球しかやらなかった者が野球を辞めて他の仕事をしようとすると、実は何もできずに困っている、一から勉強しなおさなければどうしようもない、という現実を、どう説明するのだろうか。
 おそらく、どれ一つとして、具体的な実現がイメージできないような、空論が並べられている印象がある。つまりは、この世界が「教育制度」だけでできているように思わせた論理が、破綻しているのだ。
 そして、最初に戻ろう。「若者の自立」という問題そのものには、実のところ殆ど触れられていない。教育制度さえ個性に合わせて点数をなくせば、自立できる、と捉えなければ、理解できないような、本のタイトルなのである。ここにも、暗示によりそれを読者に選択させていくというような、洗脳的手法がある。論理が、あまりにも飛躍しているのだ。
 著者は、頭のよい人である。東大に一度合格している。そのときに、哲学をやっているが、中退して、京都大学の医学部に入り直している。もしも、哲学をもう少し深くしていたら、このような論理の破綻をせずに、研究成果を、暗示手法によらずして、提示できたのかもしれない――などと、これまた何の根拠もない想像に走ってしまった。これは失言とご理解戴きたい。
 まさか、潜在的に、哲学に対する隠れた或る心理があるために、本の表紙を、哲学のサンデル教授の本のものに真似た、というわけではないのだろうけれども。




Takapan
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