本

『神と格闘した人』

ホンとの本

『神と格闘した人』
F.B.マイアー
湖浜馨訳
いのちのことば社
\1890
1985.2

 ここでは基本的に新刊か、そこそこ新しい本を紹介しようと考えている。古いものは、それを読みたいと思われた方が、入手できないことが多いからでもある。ただ、図書館などには入っていることもあるし、例外がもちろんないわけではない。
 そこへいくと、この本はキリスト教の信仰書であるから、一般の図書館にあるとは思えない。私も、これは牧師の蔵書からお借りして読んだ次第である。
 ところが、どうやらいのちのことば社のほうで、これを復刊する企画があるらしい。ただし2009年初めの時点でリクエストを募っている段階であり、定価は2730円とされている。だから今後、これが復刊されるのかどうか、も分からない。
 ともかく、すぐれた信仰書であると思ったので、取り上げることにした。
 創世記は、天地創造に始まり、様々な人類の歴史を経て、最後はヤコブの死で終わる。その創世記の半分を、ヤコブの物語が占めているから驚きである。ヤコブとは誰か。それは、信仰の父アブラハムの孫にあたる。しかし、アブラハムの信仰に比べると、ヤコブは実にやんちゃである。そもそも生まれるときに双子の相手の足を引っ張っていたというから、そこにすべてが象徴されているとも言われる。自分の利益のために他人を陥れ、狡猾に振る舞い、時に詐欺同然のこともする。それで怯えて先へ進めなくなったりもする。自分の子どもは、仕方なしに結婚したレアという妻のほうにはどんどんできるが、愛してやまなかったラケルという妻からはなかなか生まれない。やっと生まれたら、間もなくラケルは死ぬし、その子ヨセフは他の兄弟にいじめられ、死んだと伝えられる。それで人生絶望だと悶々としていたら、飢饉をきっかけにその死んだはずの子が生きていると知らされ、よぼよぼの姿で会いに行く。そしてお前に会えたからもう死んでもいいと言い、本当に死んでしまう。
 どうしようもない奴である。しかし、ユダヤ人は、その貴重な創世記の半分を、このヤコブのために費やした。ユダヤ人が律法と称する書物は五書あるから、彼らが真に聖書と呼ぶもののうち、実に十分の一はヤコブ物語なのである。
 そう、ヤコブは、神に別名「イスラエル」をもらう。そしてヤコブの子どもたちが、イスラエルの部族の名前として定着している。アブラハムが、イスラム教を含む信仰の父であるとするならば、ヤコブはイスラエルの父なのである。
 キリスト教徒たちは、このヤコブの意味の理解に苦労した。神は「ヤコブの神」とも言われるからだ。きっと何か訳があるに違いない。ヤコブの行動の背後を解釈して、ヤコブは実はすばらしい信仰者であった、と理解したい。そうした思いから、ヤコブを擁護し、どうかすると聖書を曲げるかのような解釈も広まっている面がある。しかし、著者マイアーはそうではないと言う。ヤコブは見ての通り、欠陥だらけの人間であった、と。
 しかしヤコブは神から選ばれ、ユダヤ民族の頂点に立つ定めにある。ヤコブとて、祖父アブラハムに下された神の約束は聞いていたに違いない。ヤコブは自我が強い人間で、そのために多くのトラブルに明け暮れた生涯を送ったかもしれないが、それが人間の罪の姿あるとしても、そのすべてを超えて、神の選び、神の恵み、神の愛は働き続けていたのである。ヤコブは、そこに立ち帰る魂をもっていたのは確かである。それだけでいいのだ。つまり、信仰とは、そういうものである。ずっと良い子でいるわけでもない。聖人君子になるわけでもない。罪の中にどっぷり浸かり続けているかもしれない。しかし、神の愛はその背後につねに注がれている。ヤコブは、そのことだけは知っていたのだ。
 マイアーが、新約聖書も含め聖書を縦横に引きながら、このヤコブの生涯のすべてを辿りつつ、この変わらぬ神の愛のメッセージを読者に送り続ける。読み終わったとき、私たちは、まるで聖会のメッセージにきよめられたような、深い感動と希望とを抱くようになることだろう。読み甲斐のある本である。そして、実に読みやすい。




Takapan
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