本

『バッハの秘密』

ホンとの本

『バッハの秘密』
淡野弓子
平凡社新書676
\882
2013.3.

 バッハには惹かれる。天上の音楽というと、モーツァルトも似合うと思うが、バッハの荘厳さはたまらない。しかもそれは、計算し尽くされた、綿密な構成で築かれている。その理論は素人故に分からないが、そういうのがある、ということは分かる。
 ラジカセで録音をしていた時代から、FM雑誌によって放送を知り、クロームテープでエアチェックをしていた私である(殆ど死語だらけの文だ)。バッハの名を見れば、録音をすべきだ、とマークを付ける。ブランデンブルグ協奏曲や平均律クラヴィーアを聞くと、これは何と形容すべきなのかと言葉をなくした。これが、受難曲となると、まだキリストを信じていなかったそのころには、あまり関心はなかったのだが、それでも機会をみつけて、いつかCDを買った。
 そのバッハについて、しかし気づいてみれば、何をどう知っているというものでもなかった。ずっと先延ばしにしていたその点について、やはり今できることをしておかなければと思い、新刊書に気を惹くものがあったので、購入した。
 これがまた、驚くほど細かい本だった。マニアック、と呼ぶのは相応しくないことだろう。専門家にとっては当然のことなのだから。しかし、その曲の流れを音源によらず、言葉によって説明してさも演奏しているかのように示すという方法がこの本の大部分を占めているのだと知ると、これは読むのがきつい、と思った。そのメロディが浮かんでくる人にはたまらないだろう。しかし、私は全くそういうものではない。好きだという好みと、どう知っているかという知識や記憶とは、全くの別物なのである。
 著者は、指揮者である。実際バッハの作品の大多数を指揮している。ははあ、その感覚なのだ。ここでこう曲が変化してどういう様子を示して、という綴りが延々とできるのは、指揮者が指揮をしている様であったわけだ。
 それが魅力でもあるし、また、ついて行けない技でもある。
 しかし、バッハの生涯とその背景事情なども部分的にきっちり語られているわけで、いろいろ人間的な魅力の点でも迫ってくるようになっている。見ると、バッハは実に実生活で恵まれていないものだと感じる。生活苦というものかどうかは知らないが、仕事に恵まれず、なかなか思うように自分の才能を活かせていない。少なくとも職業的には、理解されない不遇な日々を過ごしているように見える。その中で、あの天から響くような、計算を極めた音楽が可能になったのだ。
 この本には、平均律とは何かということについても記されている。しかし、これもまるで指揮者の指揮棒のように揺れているばかりで、門外漢には分からない。もちろん数式で説明するわけでもない。すべてが、指揮者のなす技というところなのだ。
 あとがきにあるのだが、この本は、「バッハの声楽作品を修辞学的に解釈すること」を主眼としている。バッハの時代、啓蒙の嵐が吹いていた。理性的な解釈が真新しく、その勢いが強い中で、バッハはそうでない道を選んだ。逆風の中を、神が人を創ったことに徹して聖書を貫いた。必ずしも今の私たちと通じやすい信仰ではなかったかもしれないが、それでも、私たちに信仰と音楽とのすばらしいコラボレーションを見せて、聞かせてくれたバッハ。華麗ではないかもしれないが、考え抜かれた音の芸術は、それ自身また信仰告白でもあったのだ。
 こうした才能ももちろんのこと、こうした生き方ができたというのも、やはり天才ならではかもしれない。私の生活ぶりも、才能の点はともかくとして、このバッハを貫いた精神と、通じるものは何かある。世の中、金だ、とは考えていないのである。もちろん、金を無視することなどはできないのだが。
 そういえば、バッハの作品に隠された「数」についての秘密も興味深かった。小節数にしても、聖書や神の象徴などを、巧みに盛り込んでいたのである。驚くべき技術である。たんなる感覚でやっているのではない、そうした音楽というものがあっても、当然よいではないか。




Takapan
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