本

『サルヴィフィチ・ドローリス』

ホンとの本

『サルヴィフィチ・ドローリス』
内山恵介訳
サンパウロ
\1000+
1988.3.

 苦しみのキリスト教的意味。苦難が救いになるというような意味であるらしい。教皇として私たちの世代には印象に残っている、ヨハネ・パウロ二世の教皇書簡が本となっており、いまなお読み継がれているとのことである。ある人がここに優れたものを見出すという話をしていたので、関心をもって手に取ってみた。薄い本で、文字も大きく、情報量としてはこの価格では多いとは言えない。だが、本は文字数で決まるわけではない。教皇という立場にある人は、政治的な活動で忙しくなるとは思うが、そこへ至るまでに深い黙想の生活を長年続けてきているのも確かである。言葉の一つひとつに、深い黙想がこめられており、神との豊かな交わりが隠れていることは間違いない。
 ヨブ記はもちろん、聖書の中で苦しみをどう理解するかの重要な手がかりとなる。また、詩編の中の数々の作品も、人間の生の声でいることもあり、苦しみの意味を問うためのよい素材である。だが、素材として客観視している間は、その言葉は自分のいのちとはならない。それは聖書一般でそうである。聖書のことばが、自分のためのものであるという捉え方ができるのは、聖書の中に自分を投影したか、あるいは聖書から神が現れ出て自分に迫るか、そうした体験をするとき、聖書のことばはいのちとなることだろう。
 教皇の声は、そうした経験をした、教養あるリーダーとして、責任あるメッセージを届けてくるのもりとなる。ここには同じような言葉が繰り返される場合もあるが、カトリック世界でしばしば見られるような修道生活の中での黙想を思わせるような深い静かな語りの中で、しばらく神と自分との交わりの中で呼吸をする、そうした経験をすることができるのではないだろうか。
 人間の苦しみの世界からその意味を考え、イエス・キリストご自身に焦点を当てる。その受難に思いを馳せると、そこから福音が聞こえてくる。そしてこの黙想は、善きサマリア人のような生き方に導かれようではないか、という方向に進んでいくことになる。それはことさらに何かをしなければというものではなく、そもそも福音が福音として生き働いているところにおいては、必ずそのようなものが存在するのだ、というような見方も呈する。私たちは、苦しみを有している。だがその苦しみの故に、神に反する自己中心へと走るのは賢明ではない。神の救いはそこにある。私たちはイエス・キリストという方を知っている。その十字架を見つめ、またその救いを与っているならば、もはや苦しみに負ける必要はない。苦しみは、十字架を通して勝利となるであろう。
 抽象的に書かれてもいるし、結論はどうなんだと問われるかもしれないが、最初から伝えているように、これは神との豊かな交わりの記録でもある。この文面を辿るその時間が、祈りであり、黙想である。それは読む者を変えることもできる。私が変えられようという気持ちをもつかどうかは問われるが、この豊かな思索の旅を、共にすることは、プロテスタントの者にとっても十分に価値がある。このような書物が、カトリックの書店にはたくさんある。時に、手にしてみたらどうだろうか。




Takapan
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