本

『イエス・キリストは実在したのか?』

ホンとの本

『イエス・キリストは実在したのか?』
レザー・アスラン
白須英子訳
文春文庫
\1100+
2018.5.

 2013年に出版されアメリカで話題になったという話である。邦訳も2014年に単行本として出ているが、それが2018年に文庫化された。それなりに読まれ、売れているということなのだろう。
 著者の少年時代の出来事から始まる。キリスト教信仰に目が開かれて夢中で求めたということだ。しかし、聖書を見る目が変わってからは、それを信仰の書というよりは、興味深いものとして調べるほうにまわった。その後はむしろイスラムの信仰を抱くようになったというのだが、聖書については実に多くの知識をもっており、まともに研究をしているといえる。それはかつて若いときに入れこんだこととつながっているのだろうと思う。
 読み進むにつれ、その突き放した視点の立つところは次第に明らかになる。キリスト教徒として、とくに聖書をそのままに信じる純朴な信徒には堪えられないような記述にも遭遇する。いとも簡単に、聖書の中に事実ではないという指摘が続くと、本を閉じたくなるかもしれない。しかし、時にそのようなタイプの言及が、いかにも憎悪に満ちた反逆的な言い方や思い込みでなされるというものもあるのは確かだが、この本はおそらくそうではない。実に緻密に、資料から明らかにしようと努めてくれる。つまり、よく読むとたいへん勉強になるのだ。
 その資料性は、巻末の注釈にまとめて詳しく挙げられているから、それは本編を読み終えてから一気に眺めるのもいいし、あるいはその章毎に目を通すというのもいいかと思う。読者の好みで選べばよいだろうが、それぞれの節には根拠があるということを知ることは悪くない。それは特別に反感を抱くような人の説を集めたというわけではもちろんないし、近年の神学や文献研究からして、半ば常識となっているようなことが殆どであるので、押さえておきたいことばかりだと言ってよいのである。
 歴史的背景から本書は聖書の根底を描こうとする。たんに聖書という文献だけの字面を触っているわけではない。歴史はどうか。他の文献はどうか。その意味で、それぞれの論点を追究することは、私としては、信仰のためにもとても役立つことが多いように思うのだ。
 特に、最終章であるが、義人ヤコブについての指摘は、教えられることが多かった。なんとなく感じてはいたものの、ヤコブ派とパウロ派との流れの明確な区別を置くことによって、新約聖書の表記や思惑が鮮明に浮かび上がってくることの実例は、読み解くための大きなヒントとなりそうな気がした。イエスが自身のことをどのように認識していたか、という点についての断定的な記述については、その可能性を認めないわけではないにしても、言い切るのもまた一方的であるように見えたが、この弟子たちの対立と流派からくる手紙への言及というものについては、複数の人間が絡む中でそれぞれの思惑からくる、見た目の混乱あるいは雑多な表現が、いろいろ整理されるように思われたのだ。
 もちろん、ここにあることは一つの研究であり、見解である。すべてを鵜呑みにする必要はない。だが、読まずして頑なに拒絶するというのも、賢いことではない。学べばよいのだ。悪意に基づく中傷であれば相手にしないに越したことはないが、これはかなりな証拠を提供する機会となっている。一度受け取った後で、それぞれの論点を読者が自分の中で噛み砕いていけばよいのだ。ただ、そのためには自身でそれなりに聖書を読み解いたり、解釈したりする営みが求められて然るべきである。ただ学説や意見に左右されるだけの読み方であっては、混乱を来すものであろう。いずれにしても私たちは、聖書と向き合い、そこから何かを聞くという姿勢が欠かせないのである。




Takapan
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