本

『古代イスラエルにおける聖戦』

ホンとの本

『古代イスラエルにおける聖戦』
G.フォン・ラート
山吉智久訳
教文館
\1800+
2006.4.

 1969年の出版であるから、もうずいぶんな時を経たものである。しかし、碩学フォン・ラートによるこの「聖戦」への問いかけは、大きな影響を与え、聖書の研究に大きな功績をもたらした。いったい、旧約聖書にある戦争の記事を、私たちはどう理解すればよいのか、という問題である。
 確かに、胸を痛める記述が多すぎる。カナンに突入するとき、ヨシュアたちに命じる。敵を滅ぼし尽くせ。一人残らず殺せ。これを「聖絶」と訳した聖書があるが、つまりは殺すことは聖なること、神を神として崇めるために、邪魔なものを殺戮することは正義である、というのである。
 この考えが、歴史の中で、劣った文明やキリスト教文化に敵対する勢力を絶滅されることの正当化に使われたことは間違いない。キリスト教は常に正義であり、権力と結びついた教会は、異なる国や文明を破壊することを、神の名の下に正義の御旗の下に歴史に刻んできたのである。
 イスラエルはまた、同じような仕打ちを受けることにもなった。ペリシテ人に迫られるあたりの時代はまだ生やさしい。後にはアッシリアやバビロニアの帝国から、残虐な仕打ちを受け、民族絶滅には至らなかったが、殺戮と破壊の限りを受けたというのは確実である。その様子も旧約文書の中に記録され、酷い仕打ちに目を背けたくもなる。古代の戦争においては、人権も条約もなかったのだ。人類は、これぞ敵と思うと、徹底的に残虐なことができたのである。そして、それが戦争である。現代でも、建前上、そんなことはできないことになっているが、現場ではなされていないはずがない。部隊全体としておおっぴらにはできないはずだが、隠れた現場では本当に分からないとしか言いようがない。いや、そんな虐殺などありえなかった、と言いたい人がいることも理解できるが、そもそも戦場では、飢餓と疫病とで悲惨な情況にあったはずであるから、紳士的な協定が守られていると考えるほうが不自然である。それはそこに派遣された兵士の責任だと言うつもりはない。ただ戦争というのは、そのようなものだ、ということである。まして、協定などのない過去の時代における戦争の酷さというのは、旧約文書の中でもしばしば描かれているように、本当に悲惨なものだっただろうと思う。
 イスラエルは後に被害的な立場に一方的に置かれるが、王国設立までは、そして列王の時代においても、敵との戦争が多々あり、サウルなどはアマレクを滅ぼすことをためらったために呪いを受けて、その王朝は滅び、イスラエルの栄光の王ダビデに譲位されていく過程が克明に描かれている。聖戦であるがゆえに、戦争は正義であり、神の命を受けての勇者たちの行動であった。いったい、神は本当にそのようなことを命じたのだろうか。神は敵を敵として滅ぼすこと、殺戮することを求める、そんな神なのであろうか。
 説明はできる。聖書の中にも記述がある。敵は堕落している。だから殺してよい、殺すべきだ、と。
 やはりこの思想は、旧約聖書がどのように、いつの時代に書かれたか、という視点を無視しては議論できない。フォン・ラートは、文献成立の過程を視野において、古代イスラエルから列王の時代、とくに申命記の成立したであろう重要な時期における戦争観を踏まえつつ、さらに預言者とは何であったのかということを論じていく。ひととおり、論点を整理して意見を述べているという点で、この書は、戦争についての基礎文献となりえたのである。
 だが、だからフォン・ラートの考えが正しいかどうか、それはまた別の問題である。むしろ、随所でその後叩かれることとなり、研究者の見解としてはどんどん修正されていくことしとなった。しかし、そういう土台を築いたという点で、この研究の価値はますます大きいと認められるべきであろう。
 そのフォン・ラートの意見をまとめるべきかと思いながら読んでいったが、本書について実に驚くことに出会った。フォン・ラート自身、129頁から10頁ほどで、総括した結論と、研究の展望を記している。やはり申命記は大きなポイントであり、ヨシヤ王の死の後にはこの聖戦という考え方が出てこなくなってくるのだ。いや、驚くべきというのはこのことではない。この後50頁にわたり、訳者が延々と聖戦に関する研究の成り行きを解説するのである。実に本書の37%が、訳者の解説なのである。ここに、フォン・ラートの本書の内容の概説と、その語の聖戦研究についての紹介が並んでいる。思うに、この解説だけで十分に一冊の、入門書として成立しているのである。
 戦争を正当化する論理は、古代においては神の名から成立した。現代の戦争は、神々の名ではないように見える。だがそうだろうか。人間は自らを神とし、自らの欲望を根底とした、いかにも正義であるような看板を掲げて、戦争へ、争いへと、人々を駆り立てようとしてはいないだろうか。それを見破ることができないで、大勢の者が、民主主義という方法の原則で、戦争を起こすようになっていく危険がある。しかもそこに、自らの責任というものは微塵も感じさせないものを潜めているとなると、本書のような戦争義認のからくりを考える営みは、一部の研究家だけのものであってはならず、まず聖書に親しむキリスト者から始め、世に問いかけていくために必要不可欠であると考えるのであるが、どうだろうか。




Takapan
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