本

『イスラム――癒しの知恵』

ホンとの本

『イスラム――癒しの知恵』
内藤正典
集英社新書0576B
\756
2011.1.

 読んでいると、イスラムというのは理想的な宗教のように見えてきた。そして、世界の中でイスラム諸国が敵にまわされているのを、実に気の毒なことだとはっきり映ってきた。
 サブタイトルがないと意味がないと思われるので、タイトルの中に同居させたが、ここにあるのは、癒しの知恵という観点である。順を追うと、まず紹介されるのが、イスラム諸国における自殺率の異常な低さである。これを著者は、自分を追い込むことなく、問題を神に丸投げする精神的土壌の故であると結論づけ、またそこから論をスタートする。だからこれは、実証の本でもないし、原理を追究するというのとも違う。ただ事実を、著者なりの観点で説明し通す本である。
 最初のほうで、そのイスラムという語の定義めいた説明がなされ、その信仰スタイルが明らかにされる。論法としては、適切であると考える。まず西欧諸国に植え付けられたイメージを払拭する。しかも、原理や基本からそれをなすと、分かりやすい。読者はいつしか、著者のペースに乗せられていく。つまり、イスラムの信仰原理のすばらしい世界に入っていくのである。
 それは、行為に裏打ちされたものである。喜捨ということから、ラハットという概念が明らかにされ、いわば人に無条件に親切にするべく基礎づけられている、ということが説かれる。概して、この原理が本の最後のほうまで走っていく。
 中東における、旅人のもてなしについては、たしかに聞くところが多い。そもそも旧約聖書を見ただけで、旅人を、いわば命に替えても大切に扱うという精神が伝わってくる。また、それを知ることなしには、旧約聖書すら読めるものではない。そして、現代的な個人主義や功利主義から聖書をそのように読んでしまうと、重大な解釈のミスまで引き起こしてしまうことになる。
 イスラムにおいても、事情は同様である。というよりも、日本にあまりにもイスラムの思想が、生活レベルのものとして入ってきていない、と著者は言いたいのであろうと思われる。そして、罪を犯しやすい人間の姿が素直に認められ、それでも慈悲深い神のあり方が取り上げられていると説明する。同じ旧約聖書を土台としていながらも、キリスト教のような、原罪という考え方がなく、人間は誤って当然だとする前提をもつというのだ。
 友人が実際にいるせいか、著者の生活次元でのイスラムの記述はつねに生き生きしている。それが事実として体験されているからこその強みである。平和な交流がそこにあり、理解が進むことは好ましい。私は直接友人がいるわけではないが、福岡にいるとイスラムの方々を身近に見る機会はわりと多い。超保守的であるかどうかは知らないが、女性はやはりイスラムらしいいでたちをしている。そうした人々を、どうしても一定のフィルターで見てしまうというのは確かである。が、私は私なりに同じ神の信仰をもっている。スタイルが違うにしても、同じ神を信仰する生活を理解することは、決して遠いわけではないと考えている。彼らほど純粋ではないのではないか、と思うこともある。どうしても、近代主義の枠の中に私たちもいるからだ。だが、それにしても、おおまかな方向性として、イスラムの人々のやろうとしていることは、理解できないわけではないのだ。
 著者の論は、だんだんと立ち入った世界に入っていき、終わりのほうでは、男女の関係、しかもかなり性的な部分に入り込んだ、読みようによってはかなりどぎつい内容となっている。しかしむしろ、そのことを明らかにすることは従来なかったのだ、として、一つの意義ある提言であり注目であるとしているのである。それも、前半からの前提や、議論が十分な伏線を形成していて、すんなりと読めば理解できるように配慮してあると言える。
 最後には、国家の問題に軽く触れている。あまりにも大きな問題を、この生活信仰のレベルからそのまま延長して捉えようとしているように見える。科学と宗教、道徳と法、そして国家のあり方にまで筆は延ばされていくからだ。少し欲張りすぎかもしれない。というのも、イスラムの国家形態はやはり西欧諸国とはずいぶん異なるし、その中で一定の近代主義国家としてのあり方も求められていつつ、イスラムの原理を貫かなければならないという、かなり困難な課題の中で現在進行していくことになるからである。エジプトでもチュニジアでも、イスラム国家としての問題を明らかにし続ける側面ももつであろう。たんに、西欧原理が関与したというよりも、内部的に打開されていったのは確かである。
 となると、著者が理想を思い描いているとおりに、事が運ぶとは限らなくなる。イスラムの原理はすばらしいとしても、実際にそのようにできていないからこその戒律であろうし、原理に描かれているほどにそれに従おうとする人間が美しい路線を保とうとしているわけではないはずだ。そういう美しいことを言い始めれば、捨身を説く仏教も、無償の愛をなげかけるキリスト教も、激しく理想的な宗教だと褒め称えられることになるであろう。
 イスラムだけが、理想の宗教ではない。どの宗教にも、そういう理想化はなされうるし、また、なされてきた。現になされている。問題のひとつは、これは著者も語るように、理解しあう精神である。それを、自らの宗教の理想の分野においてまず実行するとすれば、私たちが平和をつくっていく、ひとつのきっかけになることができるかもしれない。
 もし単純に、イスラムは理想の宗教だ、と走ってしまわない限りにおいて、この本は多くのことを考えさせてくれるものである。新たな偏見に走りすぎないようにだけ気をつけておけば、従来の妙な偏見を取り去るために役立つかもしれないと思うからである。




Takapan
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