本

『私・今・そして神』

ホンとの本

『私・今・そして神』
永井均
講談社現代新書1745
\720+
2004.10.

 はじめに、哲学的疑問は理解されない、という辺りから始まったのは不穏だった。自分の哲学を今から語ること、だからなかなか理解してもらえないだろう、ということの言い訳のようにも聞こえる。確かに、自身の関心に基づき、従来の哲学思想を引っ張り出しながらもそれを解説しようというような気持ちはなく、ひたすら自分の目指すところに架かる橋を渡り終えるために、できることを何でもするといったようにして、一冊が通りすぎていくことになる。
 すでに雑誌に連載してきた記事をまとめたのだというが、その都度考え直すなどして修正され、また書き加えられているという事情もそこで説明されている。ともかくそれは、自分の思想だという自負があり、読者にもそのような歩みを真似してほしいと明言している。哲学の古典をも、自分の考えを貫くために利用すればよいのである、と。
 その歩みの発端は、5分前に世界が創造されたかもしれない、という想定である。ラッセルの想定したことで、神が現実の5分前に突如生まれたという可能性があるとするのはどうか、というものである。私たちは、朝目が覚めたとき、夢を見ていたとしたら、この想定が必ずしも奇想天外ではないことを知る。
 そのうち、私にとっての「今」へと関心が進み、それが他人にとっての「今」とどう関係するかという点を考えはじめる。すると、他人と比較すれば「私」、過去や未来との対比からは「今」、というような点から、「私」と「今」とが実は同じものを別に呼んでいるのではないかという気づき方をする。これはとても面白い。ここから、「人間」や「時間」の中にこれら「私」ないし「今」があるというのではなく、むしろ逆に「私」の中にこそ「人間」が、「今」の中にこそ「時間」があると考えはじめ、これを「開闢」と名づける。開闢の奇跡である。
 この原理を以て、しかし5分前にわれわれの記憶とは独立の過去ができたとするのは、全能の神を以てしても不可能だと理解し、そうした違いを知るのは、神あるいは超越者を信じているからという流れで、「神」を想定する。そうでなければ、私たちに「心」なるものが存在できないのだということである。
 こうして「私」が「今」となりそこに「神」の概念がつながってくる。これを哲学の歴史の中で哲学者たちが生涯をかけて格闘した思索に重ねて描ききろうとして、筆者は、カントとライプニッツの原理の対立をかなりの時間を使って明らかにしていく。しかしそれは対立すべきものではなくて、カントの問題とライプニッツの問題とがつながっていくことでもあるという。一見、カントが乗り越えられていくような展開であるが、カントは統覚を設定するときに、この「私」問題がネックになっているように、うまくいかなくなる事態を招いたことくらいなのであって、カントが客観的世界を成立させている議論を軽視するわけにはゆかないのだ。その他の哲学説も交えながら哲学書らしい解説となっていき、ある意味で本書の議論の核心部分となっていく。それからその後、言語がこのありさまを叙述する以上、その言語との関係に触れておかなければならない。言語が存在するというのは、他者とのコミュニケーションが成立すること、つまり他者の存在を前提としていることである。あの「開闢」を言語はむしろ隠蔽して、そうして他者との間の世界がここに開かれていくことになるであろう。なんだかまた元の場所に戻ったかのような印象を与えて、思索の旅は終わる。
 著者の議論については正直分からないところが多々ある。もがいているのは分かる。必死に、自分の関心のために格闘し、既成の哲学をも駆使し、だがそれに乗っかることなく、自分の立てた問いの内部で解き明かそうと奮闘している様子が見てとれる。哲学とはかくありたいとも願う。だが、そこに神が、まるで自分が納得するためだけに登場させられるようなきらいがあったり、時間を単純に「過去・現在・未来」という図式で無検討の内に利用して説明しているあたり、まだまだ掘り下げられる点はあるだろうという気もした。しょせん新書であるからそれは仕方のないことだ。
 私という存在は不思議である。私はこの今にしか存在しない。そして私は私について言及する。この私は私の見渡し言及する世界なるものの内に存在していると言えるが、その世界を規定しているのも私であるとするならば、私は私の規定した世界内存在なのだろうか。その私はいま一体どこにいて何をしているというのだろうか。しかし確かに私が存在しているとするならば、私がこのいま世界を見て知っているということは如何にして成立しているのだろうか。
 哲学だから、それはそれで仕方がない。神を利用するしかなかったのだ。だが、神をそのように立てるということこそが哲学である、とするのは、決して普遍的な方法ではない。私を今と同一視するというのはとても優れた着想だと思ったが、神と時間とを無反省に利用しようとしたところに、議論の構築が途絶えた背景を見るような思いがしたのである。ちっとも分かっていない者が偉そうに言うことではないのであるが。それに、同じ講談社現代新書の『時間は実在するか』という本のことにもわざわざ言い及んでいたのであるから、必ずしも無反省というわけではないものだという気持ちもするのだが、いずれにしても、新書で扱うにはもったいないと言えばもったいない気がした。しかしこれをひとつの叩き台にするということが、世に起これば、それでよかったのかもしれない。果たして叩き台となって議論が継続されたのだろうか。




Takapan
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