本

『われはロボット』

ホンとの本

『われはロボット』
アイザック・アシモフ
小尾芙佐訳
早川書房
\840+
2004.8.

 この作品が有名なのは、いわゆる「ロボット工学三原則」が宣言されているからだ。小説であるために、ロボットの概容について詳しく知ることはできない。そもそもロボットなるものを世にもたらしたチャペックは、決して機械的なものとして描いていなかったし、後に機械をロボットの代名詞のように扱われたことには抗議したそうだが、アシモフの中にはやはりひとつの機械像があると見ることができるだろう。  そのロボットは、人間に仕える存在である。2058年、ロボット工学においては次のように三原則が掲示されている。
第一条・ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条・ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条・ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
 これを軸に、いくつかの物語が展開していく。ロボット心理学者とでもいうのか、スーザンの出会った、ロボットにまつわるいくつかの問題含みのエピソードが語られる。一つひとつの物語は短く、かの三原則に違反しているのではないか、という情況の中で、ロボットが実はそれに従っていたという謎解きのような趣もある。
 未来小説は、私にはやはり向いていないということが分かった。場面が想像できないのだ。未来の生活や常識というものを、作家は類い希な想像力で描き通しているのだろうが、私のほうがそれについていけない。いったいどんな風景を想像すればよいのか、分からないのだ。あくまで、いまの私たちの世界の出来事、しかし何か夢の生活が実現されて、理想的な仕組みや装置が開発されて日常的に使われている、という程度の想像力しか私はもてないのだ。なんと貧しい能力なのだろう。
 時代は、すでに21世紀を迎えているわけだが、スマホの革命は大きかった。かつての007映画で紹介された夢のような装置を遙かに超えた能力のものを、私たちは月に数千円で手にしている。2058年もそう遠い未来ではなくなった中で、現実においても私たちは、かつてSFでしかお目にかかれなかったものを見ているものがあるというわけだ。しかしそれをさらに超えた設定というものがどうなっているのか。ロボットですら、これらの小説で描かれたほどではないにしても、制御された中で人間にできないことをしてくれている。むしろ、小説ではあくまでも人間タイプにしか描かれていないものが、いまメカ装置として機能している点が、実用としても優れているというふうには思えないだろうか。
 時にいまやAIと呼ばれる人工知能の開発が進んでいる。ロボットの空想小説で考えられていたものは、このAIの先にあるのだとも言える。しかし小説では、そこに意志があり、恰も感情のようなものがあるようにも描かれているように見える。その点、日本においては手塚治虫が鉄腕アトムで描いたものは、優れたモデルであるのではないかと思う。
 変なこだわりがあるためだろうか、読書を楽しめたとは言えないが、こうした世界を垣間見たことは、ひとつの良い経験になったとは思っている。ファンの方々にはきっとたまらないのだろうし、1950年という時期にこれだけのものを考えた作者には敬服する。いまなお輝きを失ってはいないのではないだろうか。




Takapan
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