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『ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』

ホンとの本

『ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』
エドワード・J・ワッツ
中西恭子訳
白水社
\3600+
2021.10.

 図書館の新刊の棚にこの名前が見えて、瞬間的に手に取っていた。ヒュパティアは、近年私にとり大きな存在となっていた。数学と天文学、そして新プラトン哲学、美貌の女性でありながら、政治的な問題に巻き込まれ、実に無残な殺され方をしたという。
 380年にローマ皇帝テオドシウスが出した異教への迫害の指示が391年にアレクサンドリアにも及び、この暴力行為の荒れる中で、図書館の異教的な要素が暴力的に破壊されていった。 やがて、ローマ帝国の政治機構が行き詰まってきて、キリスト教徒たちが党派争いに明け暮れていたころ、415年、主教と総督との間での諍いがとめどなく続くようになったとき、総督とヒュパティアが策を練っていたという話を拡大して、群衆がヒュパティアを憎むように操った。そして外でヒュパティアと出会った群衆は、狂気の暴徒と化す。
 ヒュパティアは皮を剥がれ、身体を切り裂かれ、切断され、目をえぐられ、引き回された末に燃やされたのだという。
 さすがにこの結末のシーンは描かれることなくその直前で終わったが、2009年スペイン制作の映画「アレクサンドリア」もこのヒュパティアを描いた力作であった。キリスト教徒が如何に野蛮であったのか、思い知ることとなる。また、キュリロスという司教のどうしようもなさも現れていた。この映画は、キリスト者はぜひ見て戴きたい。こんなことは私はしないぞ、などということは言えなくなるはずだ。そしてキリスト教というものが、こんなことをしてきたのだということを胸に止め、そこから自分の信仰というものを考える機会としなければならないと私は強く思うのである。
 ヒュパティアの殺害は、政治をも動かした。さすがに理性ある人々は、ヒュパティアを見直していくのであった。もう魔女などとは呼ばせない。むしろ殉教者であるとさえ言われた。新ブラトン主義の哲学者として指折り数えられるような存在だったヒュパティアの死は、ギリシア思想の終焉だとも考えられた。このアレクサンドリアも、後にイスラム世界に引き入れられることとなる。
 ヒュパティア殺害を指導したとされる総主教キュリロスのほうはというと、いくつかの神学論争で名を残しており、エフェソス公会議の開催にも寄与している。キリスト教会的には、立派な働きをした人物であり、勲章ものである。
 本書は、新しく研究されて書かれた伝記としてよいかと思う。オクスフォード大学出版局の「古代における女性たち」シリーズのひとつとして発行されているる2017年というから、邦訳もすぐにとりかかり日本語版が生まれたこととなる。それだけの価値があるものとなっていると思う。こうした学術的背景があるだけに、資料も半端ない。それでいて、学術的な論文ではないので、物語として告げつつ、その政治的・学問的背景についてはぬかりなく解説を続けていく巧みさも持ち合わせている。様々な側面を、多層的に描いている腕前は見事である。読者を厭きさせることなく、落ち着いた叙述で、当時の政治的状況を伝えている。
 よくぞこれだけの資料を駆使してまとめあげたものである。そしてこの女性を描いたという点で、しばしば男性の著者だと、何かしら女性に対する眼差しのよくないところが文章に現われてくるものだが、ワッツについては、謙虚であってそうした悪い扱いを見せることがない、と訳者は最後に伝えている。
 巻末には、60頁を超える、参考文献や資料のリスト、また注釈はもちろんのこと、語句索引が添えられており、実に頼もしい。注や索引に目を通すまでの読み方は今回できなかったが、図書館にもこうしたものが入荷したというのは、文化的にもまさに頼もしい。
 ヒュパティアとは誰なのか。私はどうしても映画の印象が強いのだが、それを背景にしても、本書は十分に楽しめる。ヒュパティア自身にはそれほどたくさんの史料がのこされているとは思えないのだが、史料というものは様々な角度から組み合わせる戸、これほどにくっきりと一人の人物すら浮かび上がるものなのだということを学ぶ。残念ながら、学問的なヒュパティアの業績そのものは遺っていないというが、間接的にそれは知られることとなった。頭の切れる、実にすばらしい才能の持ち主であったのには違いない。惜しい事である。だが、その死は、こうして私たちに届けられた。そして私たちの罪というものに思いを馳せさせてくれたのだし、謙虚に真理の前に跪く必要があることを教えてくれたのである。まさに命がけで、それを私に知らせてくれたということについて、ささやかではあるが、感謝とお詫びとを彼女に向けなければならない。そうではないだろうか。




Takapan
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