本

『高校生しなくてもいいこと』

ホンとの本

『高校生しなくてもいいこと』
渡辺憲司執筆監修・小林実監修編集協力
旺文社
\1200+
2021.5.

 シリーズ「飛び出せ高校生!の第三巻だという。そのシリーズは、「高校生のための「生き方の参考書」」という触れ込みである。一歩前へ出る勇気のきっかけになることを願って発刊された。学習法や、あがらない方法などは、ふむふむという気もする。今回のものは、「学校、友だち、自分に悩むあなたへ」というサブタイトルが付いている。これら三つの対象や領域における、心理的な側面での問題に対する回答のように見える。
 形式は、ある問題についての、高校生や大学生に旺文社が募ったアンケートの中から挙げられた声をいくつかまず重ねておいて、それらについて、一つひとつに対してそれを問題化したようなふうにして結論を出す。「先生のアドバイス」が、まず簡潔な結論を、下すのである。そしてその説明が文章で加えられる、というようになっている。たとえば「変な校則は守らなくていい。」という結論と共に、簡潔なサブの声が「校則より、自分は人間として、こうあるべきだということを大事にしてほしい。」「大事なのはハート。カタチが自分を決めるものじゃないよ。」「「紳士たれ」、「淑女たれ」と、自分に言い聞かせよう。」と並ぶ、これが見開きである。可愛いイラストもあって親しみやすい。頁をめくれば、文章で五つの項目に分けて話すように説明が加えてある。変な校則はあること、自分なりの規則をつくって守っていこう、校則をやぶって叱られたら反省すべきだが自分が正しいことをしたと思ったら胸を張ればよいこと、内面を大切にしておくとよいし、それを自分の価値観にすればよいから、いちいち衝突せずにそれなりに守っておくこと、などが書かれている。
 悩む高校生は、ほっとするかもしれない。だが、私はそれでよいのかどうか、疑問に思う。理念のない校則に異議を唱えるのは当然だ。だが、それは教育機関の中での出来事だ。つまり、教育の一部である。不合理な法律があったとき、それを改正するための手続きというものが世の中にある。それを学ぶ機会にもなっているのではないか。それを、このような意見に従うならば、表向き従っておけばよく、自分の中では自分の法律があるんだぜと自負しておくとよい、とするのが、社会市民あり方につながるのだろうか。違反はしないけど、実は自分の考えのほうが正しいんだ、そんな考えを育むのが教育なのだろうか。むしろ、堂々と違反をして、正当性を訴えるというくらいのほうが、一般社会に見られるひとつの道なのではないだろうか。自己愛を大切にするということが無意味だとは思わないし、世の中には、ほんとうに心の危機をもっている若者もいる。いじめられている子がいたり、精神的な病気治療に値するような状態の子もいる。そうした子に、自分は間違っていないんだよ、と呼びかけることを私は悪いなどとは少しも思わない。場合によってはそこから入らねばならない場合もあるだろうと思う。もちろん、まず必要なのは傾聴であって、こちらの意見を出すのではなく、うんうんとひたすら聞く、というような姿勢などが大切であるから、単純には言えないが、やはり気を使わないといけないケースがあることは大いに認めるといっているのだ。だが、高校生一般に対して、不満でも自分の内部で正しいと思っておけばいいんだよ、という指針を示すことが、適切であるのだろうか。そこに疑問を感じるのだ。
 長く一つの問題だけを取り上げたが、実は本書は、全体がこのようなペースになっている。もちろん必要な視点も紹介してくれている。先生も人間だから絶対者ではない、という見方は大切だ。学校の授業だけが勉強じゃない。それはその通りだ。友だちに本音を見せる必要はないから演技をしよう、というのも、ありうるだろうと思う。「空気を読む」ことと「空気に流される」こととを区別しよう、という知恵も尤もだ。だが、それをどのように区別するのか、そこが問題ではないのだろうか。使い分けること、とアドバイスしているが、それは本当にアドバイスになっているのだろうか。それができたら苦労はないのだ。資格や特技は人間の本質ではないから、自分の好きなことをすれば長所になる、などともいう。そうだろうか。結果的にそう自分の人生を振り返るのは構わないが、高校生が、資格に挑戦を一度もせず、自分はこれが好きだからこれをするぞ、ということで、その好きなことを続けられる幸運な人生を歩めるのは、ごくわずかな人だとは言えないだろうか。それよりも、何か資格に挑戦してみるということは。教育的に大いに意味があるのではないだろうか。英語は苦手だから英検なんか無理だと思っていたが挑戦してみた。そのために準備をした。受けてみた。合格した。この経験は、その子にとって大きな自信になると思うのだ。自分の人生をひとつに賭けるほど定まっていないのが殆どの子である。それがいつか、そういうことに出会う時がくる。大学を出ようかというころに、本当に研究したいこと、本当にやってみたいビジネス、そういうことに気づかされることがあってもいい。その時、それをやるためには資格が必要になる、というのはよくあることだ。よし、自分はかつて無理かと思っていた英検に挑戦して、合格したじゃないか。今度の資格にも、挑んでみよう。こんなふうに思える力に、あの経験はなるのではないだろうか。
 高校生でとった資格がそのまま人生を決めるということを前提にする必要は亡い。それが人間の価値を決めるなどということはない。だが、勉強というものがどだいそうだ。自分は克服した、という経験は、何者にも代えがたい。乗り越えた自分の経験は、自分が見いだした希望の道を目の前にしたときに、背中を押してくれると思うのだ。それを、資格には無関心に、つまりそういう挑戦をしたことがないままに、ただ「好きだからやってる」ということだけでその道に進めるというのは、ドラマではよくあるのだが、現実ではごくわずかなケースに過ぎないのではないだろうか。
 弱い心に寄り添うことは大切である。突き放してはならないし、やればできる、というような無責任な励ましも禁物である。だが、何も前進しなくていい、離れていればいい、ありのままの自分でいいんだよ、もっと自由になれ、と励ましたつもりでも、これとこれを区別すればいい、などと、そもそもどのように区別すればよいか経験もないし分からないからこそ困っているのに、肝腎のところで突き放すばかりなのかどういうわけだろうか。疲れるSNSは無視していいよ、仲間でルールを決めたらいいね、SNSは自分で管理するべきなんだ、その自覚が必要だよ。こんなアドバイスに、何の現実性があるのか、私は執筆者の見識を疑う。そんなことは分かっているが、できないのだ。だからトラブルが起こっているのだ。大人が大上段から、人生を分かったようなふりをして教訓を垂れる。まったく、本書の最初のほうの相談の答えをここで返してみよう。「先生の話は、なんでも無理に聞く必要はない。」「先生を信用しないことも大事。」これがここで生きてくる。
 このような、何もしなくてもいいんだよ式の励ましで、一瞬助かったと思える子がいることは認めるが、生きていくときの指針になるかというと、私はならないと思う。高校生が、「さしあたりいま」しなくてもいいこと、がある、という触れ込みに反対はしないつもりだが、それで自由になる、などというのはむしろ幻想に過ぎず、そのような自由こそ、実は最も困難で絶望にする導くものであることを、私は予想し、憂う。自由のパラドックスについて、偉い先生方はご存じないはずはない。自由であることほど、不安を生むものはないのだ。本当の友だちじゃないと思ったら無理に話さなくてもいいよ。その自由が、先生にはあるのだろうか。そんな生き方をしたら、先生などできなかったのではないだろうか。高校生がほしいのは、ではその話さなくて済むようにするにはどうすればよいか、なのだ。SNSの関係を切る具体的なやり方こそ知りたいのだ。トラブルは放置しておけば時間が解決する、などというアドバイスには、現実性もなければ、効果も何もないのだ。学校という狭い社会に強制して入れられている中で、そんなアドバイスは害にこそなれ、何の悩み解決にもならないのだ。
 半世紀の教員生活の集大成が、こうしたアドバイスだなどというのであれば、きっと建前だけいいことを言うが、現実にはこそこそと人の顔色を窺いながら返事を合わせて取り繕っており、その中で自分だけは正しいんだと自己愛に浸っていた、そんな風景が頭に浮かんできた。どれも、本書の中にあったアドバイスである。




Takapan
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