本

『死刑判決は『シルエットロマンス』を聴きながら』

ホンとの本

『死刑判決は『シルエットロマンス』を聴きながら』
林眞須美
講談社
\1680
2006.8

 扱いには注意をしなければならない。基本的には、支援者が、1998年のあの和歌山毒物カレー事件において逮捕された女性については、冤罪である、という意味で、出版しているものである。
 いわば何の関係もない人々が犠牲になった事件である。事故でなく、故意にそうなったに違いないのだが、毒物混入という行為は、多方面に被害を与える割には、今の法律や検察そして裁判という仕組みの中では、証拠の認定が困難な方法の一つであろう。
 この本は、容疑者と、その4人の子どもたち、また夫との、書簡を集めたものである。また、ノートの使用許可をもらったため、連日書き記したものが残っている。そのあたり、どのような仕組みでこの出版が可能になったのか、その内容の検閲などはどのようであったのか、法律的に素人の私には、よく分からない。ただ、拘置所内の容疑者の文章については、何らかのチェックは入っているはずである。
 そのような文章であるから、どこまで本当のことが記されているのか、本音が書かれているのか、それさえも分からない。チェックを通過しないことは書かれないためである。
 従って、これがどれほどの資料性をもつのか、は分からない。長年の往復書簡の中で、長女は母親を離れていく。つまり、この本には、子どもたちの側からの文書も公表されている。もちろん、それは仮名ではあるが、4人の文章が、生々しく、半分近くあるということになる。それは、全通ではない。主なものが掲載されているに過ぎないのだが、もちろんそれで私たちには十分であろう。
 親の無事を祈る姿は、たしかに誰にも共通なものであろう。それらを掲載することで、家族の間のつながりや支え合いを、どこか情的に訴えるというのが、目的であったのだろうか。容疑者の子どもたちということで、児童養護施設で育てられていく4人であるが、たしかに、辛い成長を遂げていることには違いない。しかし、私が編集者であったなら、子どもたちの文章は載せない。あらすじは説明しても、生々しい原文を載せることはしないだろう。載せなくても、容疑者の心情を訴えるには十分だからである。だが、それをしたのは、何故だろうか、と思う。
 果たして、事件はこの容疑者が犯したものなのかどうか。法的には、幾ばくかの問題が潜んでいるらしい。それはその専門の筋の方々が努力して戴かなければならない。
 私は、心理的に捉えようと思った。
 そもそもこの容疑者、私と同世代であるゆえ、とくに初期に盛んに取り入れられる、歌謡曲の類(本のタイトルにも用いている)の好みから判断すると、いわばヒット曲を普通に気に入っているだけで、さして音楽的に深い理解を示そうとしている様子はないことが感じられた。
 それから、もし犯していた場合、犯しておらず冤罪である場合、それぞれの気持ちになって、書簡の文字を追いかけることにした。これは私の感覚である。感覚的には、後者に違いない、と思える要素はなかった。それは、後者ではない、と否定しているわけではない。
 私とは、金銭感覚がずいぶん違う。激情的であり、劇場的である様子がふんだんに窺える。つまり、目立つこと、ショー的なことを意識していて、まるで舞台で演技をしている俳優のような感覚をもっている様子が見て取れるような気がした。そして中に一度だけだが、真犯人は別にこんな奴ではないか、ということで、こんなふうに書いている。「動機もない、計画性もない、そんな人が大量無差別殺人をするんやろか。地域住民もママのことは『普通の主婦』だと証言してるしさ。精神障害者か覚せい剤患者か子供のいたずら、ちがうんやろか」(221頁)と呟き、以後、自治会のトラブルを伺臭わせ、裁判官たちが、自分が「犯人なんだと納得する、確信する証拠は何一つないはずだよ」(222頁)と書いている。
 現場の状況に照らし合わせて、自分がどのようにしていたのか、といういわば内的な事実の説明はついぞ見られなかったのに対して、自分の姿は鉄壁だ、と思わせる姿があふれているように見える。他人のせいにするにしても、あまりに露骨な、いわば差別的な表現である。私が冤罪であったら、こんな言い方はしない。
 自分が、確かに証拠もなしに裁判が進み、死刑になろうとしている。まさに、自分は被害者であり、弱者である。ぬれぎぬを着せられた者が、はたして、何の証拠もなく、「精神障害者か覚せい剤患者か子供のいたずら」ではないか、ということを、言うだろうか。自分がやったという「証拠は何一つないはずだ」という文脈に続く形で、そのようなことを、言うだろうか。
 もちろん、容疑者は特殊な世界にいる。拘禁環境における精神状態は、計り知れないものがある。人間、追いつめられれば、理性に適った言葉を放つとは限らない。しかし、つい口が滑ったにしても、わざわざこのような本の中に取り上げる必要はなく、削除すべきであったろう。
 もちろん、マスコミ取材のあり方や、その後の報道の仕方などに、問題がないわけではない。興味本位の記事により、一般の人々に偏見を植え付けたのではないか、というような、弁護人などの指摘は、省みられなければならない。
 そうしたことを含みつつ、裁判の行方が見守られる。




Takapan
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