本

『ハンナ・アーレント』

ホンとの本

『ハンナ・アーレント』
矢野久美子
中公新書2257
\820+
2014.3.

 最近、映画になった。見たいと思っていたが、チャンスを逸した。しかし注目度の多い人物と見えて、こうして新書や文庫でも紹介されるようになった。私も、名前は聞いていた、という程度であって、実のところ何も知らないに等しかったから、これはよい機会と思い、新書に学んでみた。すると、これは大したことだと分かってきた。
 ハンナ・アーレントと言えば、全体主義への批判を連想する。ドイツに生まれ、ユダヤ人として迫害された立場にありながら、比較的安全な道は与えられた。秀才であり、女性哲学者として嚆矢とされることもある。ハイデガーとの関係も指摘されるが、ナチスに寄り添っていくハイデガーとは袂を分かつ。アメリカに亡命し、政治哲学論を以て広く知られるようになった。
 しかし、その生涯のエピソードについては、本書に委ねるべきである。要約できるものでもない。ただ、ここへきてどうしてハンナ・アーレントなのか、という意味が少し私なりに見えたような気がした、ということで、いくらかの私の思いを綴ってみようかと思う。
 本書では後半、それも終わりのほうとなるが、ハンナ・アーレントがバッシングを浴びるところである。それは、ナチスの戦犯の裁判に立ち会い、世界中がそれを断罪する勢いのある中で、彼女は、世間から見れば、ナチスのかたをもつような響きをもつ発言をする。これに世界中が猛反発をする中で、一部の学生たちは彼女を迎える。いつの世にも理解者はいるということだが、たしかに彼女の真意や視点というものについては、ひとつの根拠があり、慧眼であるとも言えるのだ。
 いじめがあり、命を奪う事態にまでなったとしよう。マスコミや世間は、いじめた本人を叩くだろう。もしそこに、「いじめられる側にも原因があった」などとコメントする者がいたら、どうだろうか。けしからん見解だ、と非難するのではないだろうか。そして「いじめは擁護してはならない。被害者にも非がある、などと決して言ってはならない」という考えが提示されることだろう。
 アーレントは、もちろんユダヤ人も悪い、などと言い切っているわけではない。だが、一部のユダヤ勢力とナチスとのつながりを指摘するなど、ナチスの擁護ともとれる発言をする。そしてなによりも、いじめを傍から見ている者にも責任があるはずだという点を指摘する。どうすることもできなかった、と言って敵に従うことについて、敵に加担したことになりはしないか、という問いかけである。それは厳しい問いでもある。確かに何もできないということはあろうからである。だが、原理的に、それを言い訳にすることにより、敵はますます力を増すことになる。それも嘘ではないことだ。ただ、そこにどの程度の責任をかぶせるべきか、それは法の問題でもあり、実践的な法運営に関わる事柄であるかもしれない。
 これは現代さらに、正義論という、比較的よく知られた分野で議論される内容ともなってくる。つまり、それだけ検討に値する問題だということである。だが、事がユダヤ人迫害の当人とあっては、世界はそういうこととして認めはしない。かくして、ナチスにある意味で加担していた世界が、いざとなれば自分は責任を外れているということを前提として、アーレントの説を糾弾しにかかる。
 要するに、これは今も活きている論だと思うのだ。何かと理由をつけて、根拠めいたことを告げつつ、軍事行動を推進しようとする思想は、果たしてアーレントの指摘とは無関係なのか。特に、そういう動きを前にして、自分は第三者であり傍観者に過ぎないという前提で、議論を見守るだけの群衆が、果たして無責任のままでいてよいのかどうか。知らず識らずに加担しているという立場であることを自覚することなしに、力を及ぼしているという、ある意味で無邪気な暴力が実在するとは言えないのだろうか。
 そんなことを思う。ハンナ・アーレントは1975年、自宅で大好きなコーヒーと共に亡くなった。だが、そのコーヒーの香りは今なお漂っている。世界が大きく変貌していく中で、彼女の指摘した問題は、解決していないばかりか、ますますその必要の度合を強めていると言えるのではないだろうか。
 イマヌエル・カントの町、ケーニヒスベルクの名家の生まれであった彼女は、カントと違い、広く世界に足を伸ばした。その中で体験してきたことを通じて、カントのような思弁では片付かない、政治的現実を味わった。世界は広くつながりをもっている。通信網によりますます情報的に世界がひとつになり、時間的に一瞬で高いに変貌するようにさえなった。私たちの時代を見たとき、ハンナ・アーレントはどう思うか、そんなことを考えたくなった。




Takapan
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