本

『信仰への旅立ち』

ホンとの本

『信仰への旅立ち』
宮田光雄
新教新書201
\650+
1982.8.

 学生が本を読まなくなった。いったい、いつこの評価が消えるのだろうか。「本」という定義自体が揺れている昨今、読書とはどういうことか、かつての読書観がそのまま当てはまらなくなっているのは確かである。古典を読まないなどと昔言われたものだが、いまや夏目漱石は古典そのものであるし、へたをすると十年前の本も古典と呼ばれもする。感情の動きを事細かく提示しなければ読み進むことのできないタイプの物語がすらすらと読まれ、二番煎じでもなんでも、泣ければいいというかのように、少し受け容れられれば映画にでもアニメにでもなる。商業ベースで本が流通する、しかもそれは電子媒体で拡散していく、このような動きの早い時代に、果たして以前の読書アドバイスがそのまま受けいられるのかどうか、私には分からない。
 だが私は、そのどちらも知っている。ひととおり、先人の薦める本には目を通したいという気持ちをもって本を手に取ってきた。ここに、キリスト教教育や政治論に詳しく、またその熱意をもって福音を社会的な分野で語っているとも言える重鎮の、学生に対する読書の願いが集められた薄い本がある。本当に小さな本である。だが、ここには学生に読んでほしいという願いが篤くこめられた本の紹介が詰まっている。実際に学生を集めて読んでいる、あるいは繰り返し読んでいるという経験の中から生まれた実際的な本のリストであり、決して著者が自分の懐かしい思いで推薦しているだけのものではない。
 キリスト教関係の新書であるから、内容は信仰に寄与するという目的の中で整えられている。しかし、信仰を勧める本や解説書が集められているわけではない。まず『星の王子さま』から始まる。神谷美恵子やフロムはもう心理学や社会学の分野であるし、ブーバーは哲学的である。
 本書は著者なりの目的範疇におよそ分けられているが、あまりそれを大きく捉える必要はないだろう。『罪と罰』あたりからは人間心理をキリスト教の福音に近づけていき、遠藤周作の『沈黙』やブルーダーの『嵐の中の教会』になると、教会や信仰についてある程度の理解がないと読み進めにくい部分があるかもしれない。そしてルターやボンヘッファーとなると、やはり神学的な知識も求められる部分があるかもしれないが、もちろん専門的な知識を要するというよりも、ハートであろうか。最後は高倉徳太郎とバルトという重厚な書で終わる。しかし、構える必要はない。それぞれ非常に読みやすいものが紹介されており、敬遠するにはあたらない。特に、一定の信仰の中にある大学生であるならば、読んで然るべきだとも思うし、私もその意味では、著者の読書観に近いものをもっているともいえる。
 事実、私はここに紹介された12冊のうち、11冊はすでに読んでいた。だから、著者の願いや言おうとしていることは、言外のものまで感じるような気がする。こうした本との出会いのないままに信仰生活を続けるのは、読書を厭わない学生にしてはもったいないし、またそういう学生が神学生となり、あるいは牧師となっていくというのは、人間として何か足りないとまで言わせてもらってもよいかもしれない、と思っている。もちろん、ここに挙げた本を読むか読まないか、でそれを決めつけようとするものではない。しかし、先人の思考につきあう気持ちなしに、どうして聖書が読めるのか、怪しいとは思う。聖書を情報書として読んではいけないし、それでは命がもたらされない。洪水のように押し寄せ書店にある意味で無駄に並ぶ書籍の中で、宝物とも言える輝く本はごく僅かであるし、それをさしあたり信仰の分野からリストアップしてくれている本書のような良心的な紹介は、大いに参考にしてもらいたいし、できるならば片端から読んでもらいたいと私は願う。
 但し、本書にはひとつの根本的な疑念がある。最初に著者が記しているように、「古典と取り組んで自己を見つめ、みずからの思想を形成していく。そのような古い教養主義的伝統が薄れていく」ことを懸念するのはいいし、一方で読書が廃れているのではないが、「知的な消費財貨としての情報にすぎない」ような読み方は本との出会いとは呼べないといった心の揺れ動きを覚える著者の思いもよく分かるような気がする。「ほんとうの本との出会い」を期待したいという思いは私も同じである。
 しかし、本書はこれらの本についてかなり詳しく内容を辿り、ポイントもよく紹介されている。つまり、今風に言えば、五分で読める名著のようなあり方になっており、本書を読めば、これらの本を読んだことになる、と勘違いされるような形式になっているように見えるのだ。ある小説などは、私なら絶対に明かさないようなラストシーンまで紹介してしまっている。これらの紹介から本当のその書物に進んでほしいという願いがこめられているにも関わらず、本書を読めば、分厚く高価な対象書籍をわざわざ読まなくて内容は分かった、ポイントは掴めた、ということになってしまいそうなのである。
 これが、本書の発行された四半世紀前と私が手にした今との差異である。本書は、ほんとうの本との出会いをする必要がないかのように、ダイジェストを与えすぎてしまっているように、今ならば見えるのである。
 もちろん、これらの本をそれ以前に読んでいた私にとっては、自分の読み方が間違っていなかったことなどの確認にも使えると思うし、逆に、そういう意味だったのか、と目を開かれるような思いも懐くのであるが、初めてこれらの本に触れようとする今の学生は、これで12冊儲かったような気になりはしないか、という疑念である。
 時代が変わった故の状況なのかもしれない。その中で、本書を推すのは、このダイジェスト版でもよいから、こうした良書に触れてほしいという、切ない願いを私がもつからである。もう直に紹介された著書を味わえ、とも言わない。しかしこれらの本についての何かしらの知識すらもたずに生きていってほしくない、という哀願である。もしかするといつか思い起こして、ひとつかふたつ、これらの本を開いてみる人が現れたら、それでもいいから、という嘆願である。
 果たして著者自身は、どうお思いだろうか。




Takapan
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