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『現代思想2023vol.51-5 総特集 鷲田清一』

ホンとの本

『現代思想2023vol.51-5 総特集 鷲田清一』
青土社
\1800+
2023.4.

 失礼だが、これだけ大きな特集をされるとなると、まさか亡くなられたのでは、と錯覚しそうだった。現代の哲学者としての第一人者であり、大阪大学総長まで務めるという教育者であり経営者でもあった。現象学を学び、それを「現場」で生かす「臨床哲学」という分野をもたらした。とくにファッションというものを哲学から読み取り、またそうした必要性を哲学のために生かした功績は大きい。文章の巧さも光っており、論文もなんだか「触れるような」言葉で扱われ、難解なことをできるだけ日常の言葉で説こうと努めているように思われる。だから、いま学校教科書にはいったいどれほどたくさん採用されているか知れない。私も著書を何冊か読ませて戴き、教えられることの多い人の一人である。
 これは5月の臨時増刊号である。通常の『現代思想』であれば、連載記事が巻末のほうに並ぶ。だがこれは「総特集」として、最後の1頁まですべてが鷲田清一である。全366頁、その中で最初のインタビュー記事の他には、本人の言葉は直接入って来ない。例外として、中央に4頁だけ、資料と自筆の講義ノートといった資料の写真が挟まれているだけである。総勢39人の論客が鷲田清一について執筆している。もうこれだけでも、一見の価値があるではないか。
 冒頭対談のインタビュアーの永井玲衣氏は初対面であるが、その奔放とも呼んで差し支えないような哲学への姿勢は、確かに鷲田氏の言葉に「出会い直している」という一面があるのだろうと気づかされる。が、ここはかなり遠慮がちなアプローチではある。
 続く執筆者は、仲間から弟子あるいはその授業を受けた人など多彩なメンバーが並び、それぞれに鷲田氏との関係をもちつつ、その人と思想を描く。二つとして同じ出会いがないため、読み飽きないが、不思議とすべてを呼んでも一人の人物像がくっきりと浮かび上がってくる。現象として様々な接し方や受け取られ方があったとしても、本体には揺るぎない何かがあるということなのだろうか。
 私が個人的にお薦めするものとしては、まず「鷲田さんと京都」(吉岡洋)が京都を舞台に描いたこと、「哲学者の柔らかな感性」(コシノヒロコ)の、短いながらも文化への強い眼差しを挙げたい。イレズミについて詳しくレポートしてくれた「夢を紡がれた皮膚」(大貫菜穂)が、それから「体」を「空だ」「抜け殻」に由来するものとして、魂を宿した肉体である「身」と区別されていたことを告げたのが心に残った。また、「京都市立芸術大学・美術工芸高校 新キャンパスについて」(大西麻貴+百田有希 /o+h)も、やはり京都のことを教えてくれてありがたかった。
 他方、批判的な眼差しとして、「はじまりの鷲田清一」(檜垣立哉)があったことは、本書を公平な、そしてこれから先へと繋げるものとして価値があったと思う。
 それから、哲学者としてよい仕事をしていると私が感じる戸谷洋志氏が「異なる「生」を摺りよせる」と題して書いたものは、「哲学対話」というものについて読者にレクチャーするような、優れた解説であった。鷲田清一は、いまでこそ「哲学カフェ」などという名で拡がっている真面目な対話の場をつくるにあたり大きな力となった人でもある。自由に語り合うためには、一定のルールがあるということ(逆説ではない)も私は分かってはいたが、この文章は、それを丁寧に説明してくれていたのだ。もちろんこれは「臨床哲学」の方法でもあるが、参加者が互いに気づかされていく営みでもある。それは、論破などとは無縁な、互いに変化することがもたらされるような場である。苦しみを抱える人が出会う場であり、新たな道を見出すことのできる場である。そこに、鷲田氏の真骨頂である「聴く」ということも関わってくる。否、それこそが根柢にあるものとなる。その意味でも、これは一番にお薦めしたい論である。
 なお、最後の「アンチ・セオリーとしての哲学」(山口尚)は、鷲田氏の著作のいくらかの、実によきカタログであり、内容紹介ともなっている。これだけ見事に本を紹介できるというのには、羨望すら覚える。私にはとうていできない業である。その最後に『つかふ――使用論ノート』が挙げられているが、「つかふ」という平仮名の内に、「使う」と「仕う」とをこめているところには、ハッとさせられた。道具的存在としての眼差しと、人格的存在としての眼差しとの出会うところとなりうるのではないか。私は全般的に、これら臨床哲学や聴くといった鷲田哲学の営みの中に、どうしても信仰の感覚をそこに見出すような気がしてならなかった。そんなことを持ち出すと、もはや「哲学」ではないと言われることは当たり前であるが、論理でばっさり斬り落とすようなことのない空気を伝えるこの営みの中には、信仰者だと実はかなり受け容れている、あるいは実践している、宗教的実感と重なるものが、多分にあるように思えてならないのであった。そこを鷲田先生がこれから掘っていくようには思えないが、誰かが代わりに挑んでもよいのではないか、そんな気がするのである。




Takapan
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