『グレート・キャツビー』
スコット・フィッツジェラルド
村上春樹訳
中央公論新社
\820+
2006.11.
およそ百年前のアメリカ。その時代性を含んで受け止めるべきだが、現代にもってきてもさほど違和感がないところが、なんともいえず不気味である。
今回は村上春樹の訳で読んだ。好みは別れるだろうと思われる。とくにデイジーの正確づけについて、書評では手厳しい批判もあった。だが、本作が村上春樹のワールドに大きな影響を与えているとなると、この訳の姿勢は、村上文学の基盤をも表していると捉えてよいのかもしれない。
物語が「僕」の目を通して展開していくせいもあるかもしれないが、確かに村上春樹の小説をそのまま読んでいるかのような錯覚にも陥るほどである。
従軍帰りの僕の孤独感を癒してくれたのは、引っ越し先で出会った近隣のギャツビーや友人トムなどだった。トムには可愛い妻デイジーがいる。その友人ジョーダン・ベイカーなども含み、毎夜豪華なパーティーを開くギャツビーのもとに集まってくる。だが、ギャツビーについてその素性は謎であった。
ネタバレにもなるのであまり斬り込んではいけないのだろうが、トムとデイジーの夫婦は決して幸福ではない。その結婚は気紛れなきっかけにもよるものだったし、トムはトムで別に愛人をもつに至った。そしてデイジーはこの謎のギャツビーと、かつてつながりがあったのである。
真面目くさった物語ではない。かといって、ギャグで済ませられる展開でもない。見ている者は、ちぐはぐな感情の交流に、おかしみさえ覚える。だが、物語は幸福の反対に一気に向かい、すべてが結びついていく。
アメリカ文学の流れをつくった名作であるとされている。これがアメリカのもつ何か大きなものなのであるのだというのだろう。正直、日本人として私は、この物語の内容にそれほどの魅力を覚えるものではなかった。贅沢暮らしをするサクセス・ストーリーの陰に隠れた、どこか純情なものと、自分の欲望にあまりに素直に生きる者たちが、思惑通りにならなかったという不都合な実例が挙げてあるのは分かるし、各キャラクターの心理の描き方が巧みであるというのも感じる。そして、確かに村上春樹好みであるというか、彼の作品を映し出すようなものがあるということも、強く覚える。けれども、生活的な、あるいは心理的な、実感が伴ってこないのだ。
百年前だから、というのではない。何かしら、その奔放で無邪気なものが、他人への気遣いや思いやりというものに薄く、内省的なものがないわけではないけれども、妙にぎこちない人間関係なのだ。かろうじて言葉や行動でつなぎとめているようなその関係。深い信頼というものも流れておらず、ドライと言えばドライだが、真摯な悩みがあるとまでも言えない。あるてすれば、自らの欲望の問題であるように感じてならないのだ。
それがアメリカだよ、と言われるのかもしれない。アメリカからキリスト教の多くが流入してきた。その信仰は日本のキリスト教受容に大きな影響を与えた。だとすれば、私たちの受けた「信仰」の背景にあるものが何であったのか、再考しなければならないように思えてくるのである。もちろん本作には教会や信仰というものは出て来ない。だからこれに抗う形で福音主義が成立するのか、それとも福音主義そのものがこうした文化を背景として成り立っているのか、そうした分析をする必要があるのではないか、ということだ。
たぶん、これが非常に高評価を受けているのは、これこそがアメリカに普遍的な通じるなにかを有しているからなのだろう。だからこそなおさら、アメリカとは何かを考えるために、この作品は有力な材料として検討することができるし、その必要があるだろうと思われるのである。
ギャツビーなる人物の華麗な生活は、ある主の虚飾であったということなのだろう。どんなに莫大な富を誇り、この世の幸福を総なめにしているように見えるサクセスに輝くアメリカの星たちが、表向きはともかく、陰では非常に暗いものを抱えているとなると、一見キリスト教の原理主義だの福音主義だのといった、信仰篤いような姿を見せているその姿すらも、実は一種の虚飾なのではないか、というふうに見て取れるようになってくるのである。その構造の闇を垣間見ただけでも、この作品に触れたのは意味があったと言えるのだろうと思う。そして、アメリカの哲学や神学も、再検討することが重要であることを思わされたものである。