本

『ゲーテはすべてを言った』

ホンとの本

『ゲーテはすべてを言った』
鈴木結生
朝日新聞出版
\1600+
2025.1.

 第172回芥川賞受賞作。いつも受賞作を読むわけではなく、興味があつたら『文藝春秋』の発売を待つのだが、今回は早くに目を通したいと思った。地元福岡では大騒ぎだったのである。だが、私が興味をもったのは、福岡県民だったから、というわけではない。
 作者が若いクリスチャンだったからである。否、それだけでも関心はそう湧かない私である。しかし、西南学院大学の大学院生であり、牧師である父親を直接知っていてSNSつながりもあるとなると、これは読みたくもなるものだ。さらに、風の噂では、聖書の言葉も鏤められているというから、読む価値はあると考えた。
 書店になかなか並ばないので、電子書籍で私は読むことにした。
 これは堅いな。アカデミックな冒険譚だというふれこみだが、ストーリーはともかく、話の端々に、悪く言えばうんざりするほど、聖書のみならず、文学や思想の言葉が飛び出してくる。そもそも本のタイトルからして、ドイツでは何でもゲーテが言ったことにしている、という文化的風土を少々揶揄するような言い回しである。日本だと、古代の遺物がなんでも空海の名で呼ばれるのと比較できるかもしれない。物語の初めで、これをゲーテが言ったというのかという言葉に出会い、それが最後まで繰り返し登場する。このように繰り返しテーマが流れてくるので、物語の中心を外すことはないのだが、それにしても、沢山の思想家の名やその言葉が、ほんのちょろっとさりげなく文章にまとわりついてくるのが目立つ。ちょっと衒学趣味だろうか、と思うこともあった。幸か不幸か私はその道の人間であるし、本について知るところは多い。少々思想家や哲学者が登場しても、さほど驚くほどのことはないし、よく見ると、いかにも有名なその人の代表的な言葉が絡んでいるだけなので、そのフィールドを少しでも垣間見た人からすれば、ありふれた引用のようにしか見えない。博学なような書きぶりではあるが、一部詳しいことにはかなり突っ込んだ叙述があるのに対して、通り一遍の思わせぶりだけで軽く名前や著書を並べているだけではないか、と思われる節もあったから、それは本当に読んでいない本を、多く登場させているのではないか、という気がする。もし全部読んでいたのだとしたら、素直に謝るので、教えて戴きたい。特に、ゲーテを考えるにあたり、25年先輩であるカントを押さえる筋がどうしても必要であろうかと思うが、カント哲学に関わるような雰囲気は本作品からは感じられなかった。カントの名は2度だけ登場するが、同じフレーズで、カントが「Es ist gut.」と臨終で言った言葉の意味が脚色して伝えられている、という、「ものの本」にありがちなエピソードについてだけであった。ゲーテ自身、カントにかなり入れ込んだこともあり、その芸術論については『判断力批判』の影響を受けていることは間違い亡いのだが、そのような蘊蓄はなかったと思う。ゲーテとくればシュヴァイツァーだとか、エッカーマンだとか、さりげなく関連事項をふれまわるくらいなら、カントを出して欲しかったなあ、と思ってしまう。もちろん、シェリングでもよかったのだが、言及はなかった。話の流れとは違っていても、他のことはいろいろ盛り込まれていたので、少し寂しい気がした。
 例によって物語の筋書きを暴きはしないが、特徴のようなものの感想は言ってもよいだろう。これは確かに文学なのではあるが、作者の若さというものは、どこかやはり机上の空論めいた言葉の操りを感じる、ということだ。たとえば村上春樹であれば、いったいその描写がなんの意味があるのか、と思うくらい、情景を描写してくる。料理をする様子も、文字を読めばすべて情景が思い浮かぶほどに描きこむ。画が伝わるのである。しかし本作品には、殆どそれがない。備品や風景などについては、これ以上省略はできないだろうと思われるほどのものだけが登場するが、物語は、人の名前と会話だけが、ひたすら流れてゆくのである。
 もちろん、情景描写すれば文字数が増え、何らかの規定の内に収まらないといった理由もあっただろう。だが、その気になればカットできる会話や解説も当然あると言えるわけで、そこは作者の思惑に従っての選択であり、故意に狙っていると言わなければならないだろう。他にも作品はあるようだが、今後作家活動を続けるとすれば、いつまでも思想談義だけで物語が綴れるわけではないだろうから、情景描写について、どうひとの感情や思惑の象徴や伏線として描くことができるだろうか。
 いやいや、待てよ。これは、もしかすると、ゲーテの『ファウスト』のスタイルを使った、ということかもしれない。会話にほぼ終始し、情景を描かない、という形をとったのが、その理由だとすると、これはメタレベルで、ゲーテを描ききったことになるのかもしれない。
 もしそうでないとしても、若いからそれが描かれていない、という理由にはならない。かつて若さの点ではさらに異彩を放った綿矢りさの場合には、17歳なりにも、豊かな感情が行間に溢れていた。知識としては、鈴木氏はこの作品で、手持ちの牌をかなり出してしまった観があるので、今後拓く地平というものがどうなるのか、と期待している。私は個人的に、信仰というものを深く追求してほしいと思っている。それについては、自分の内にあるだろうからだ。その派にはうるさい神学者もいるかもしれないが、何も学問として聖書の知識を使うわけではない。もし自身の信仰体験というのがあるのならば、それを言語化することについては、必ずしも高い壁とはならないであろう。問題は、そうした体験や沈潜する思索がない場合である。さすがにそれが手薄であると、言語化することもできない。あるいは、それを意識し、表に出すには、まだ若すぎるのかもしれない。
 なお、一文が長いのは、文体ということであろうか。昔の文学者には多かったかもしれない。それなりに読み慣れたつもりだったが、いまではさっさと読み進められないのをもどかしく思う。近年はもっときびきびした文が並ぶのが一般的であるような気がするから、たぶん私も、それに馴らされていたのだろう。
 今回、私も知らない本や殆ど読んだことのないような人物の名もちらほら見られたが、私のような者でも知るところの本が多かったところを見ると、恐らく知識についても、かなりオーソドックスなところを駆け巡ってきたのだろう。読書の逞しさは半端ないものがあるし、これだけよくお読みになったと感心するが、こういうのが文学のひとつの筋として定着してゆくのかどうか、そのためにこれから拓く世界がどうなるか、見守っていきたいと思う。




Takapan
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