本

『私にとって神とは』

ホンとの本

『私にとって神とは』
遠藤周作
光文社文庫
\438+
1988.11.

 たぶん昔読んだことがある。だが、そのときにはこのような形で感想を書いていなかった。家のどこかにあるかもしれないが、百円で見つけたのでつい買ってしまった。
 遠藤周作が亡くなってから30年後のことである。私にとっては懐かしい方である。私に信仰が与えられてからまだ存命だったから、信仰的なことについても多少知るところがあった。
 母なる神、無力なイエスを堂々と描いたことで、一時カトリックでは禁書扱いだったと聞く。本書の中でもその件が少し触れられていた。
 文庫で220頁。それほど厚いわけではない。その「あとがき」によると、これまで信仰についていろいろ質問を受けてきたものを整理して、「それに私なりの考えを、できるだけわかりやすく話して、それを文章にしたのが、この本である。わかりやすくお答えしたが、真剣に答えたつもりである」ということらしい。その他短いこの「あとがき」には、謙遜な姿勢がよく伝わってくると私は思うのだが、自分の信仰について正直によく語ってこられたのだと尊敬する。
 その後に、文芸評論家の上総英郎さんが「解説」を加えているのだが、比較的長く本書の紹介を、その内容に立ち入るのではなく、遠藤周作について広く説いてくれている。そこで、次のように結んでいる。「この作家の文学世界への、絶好の手引き書といえる名著だと確信する。」
 とても真摯に、正直に、とりたてて飾らず、信仰や宗教について、思うところについて淡々と綴られている。素直なその考えが、確かによく吐露されているのである。
 決して信仰を強要しないこと。文学によって信仰を広めようなどというつもりはないこと。こうした姿勢についても、一つひとつ理由や根拠がある。もし自分の作品を読んで教会に行ってみたいと思ったら、神父に相談してくれ。そうした人の中には、教会がつまらなかったと言うような人もいるが、教会に属することだけが信仰ではない。こうした実践的な事柄についても、自分の姿勢を分かりやすく示している。
 本書は、自分とキリスト教との関係を明らかにするところから始まる。つまりそれは証しである。しかし敬虔な模範的なクリスチャンの姿を考えてもらっても困るわけで、ダメさ加減丸出しでむしろよく、だから神を頼るのだ、という、信仰の基本姿勢も本書のあちこちから伝わってくる。
 母親の信仰がベースになっていることや、自分の身体に合った和服に仕立て直してみよう、と思ったのが自分の信仰生活である、と絶妙な説明もなされている。
 文学界にも宗教を求めていることが感じられ、共産主義とて、「ひっくり返されたキリスト教」である、との見解も示す。あちこちから、零れるように、きらめく言葉がある。もちろん時代的な内容も数多いし、時に下世話な話も混じってくるわけで、信仰書のような内容にそぐわないところも見られるわけであるが、逆にそれが、飾らない男の本音のようなものを現しているようにも思われ、むしろ好感すら抱かせるように思う。
 神は存在ではなく、働きなのだ。幾度か繰り返されるこの見方から、希望のある人生も明らかにする。しかしそれは、大部分の「疑い」の向こうにあるものであって、信じられないなどという悩みをもつ人に対して励ましとなるようなところも見られた。
 けっこう仏教を引いてきて比較することもあるが、キリスト者がそれをすると、大抵仏教はダメでキリスト教がいい、というふうに見せようとするものである。遠藤周作は違う。むしろこんなに重なっているところもあるし、特に仏教の「阿頼耶識」についてはかなりウェイトを置いて、キリスト教信仰ともつながりがあるというような話し方をするのが面白い。
 復活について、奇蹟について、愛について、一つひとつをここでご紹介するのは控えるが、それぞれ味わいがあるし、流石文学者だけあって、読ませるもの、惹き混ませるものがそこにある。
 内容的には半世紀以上以前の世の中の様子から記されている、というところもあるに違いないが、案外、いま私たちが行き詰まっているところに、何かしら光を与えてくれるかもしれない本ではないか、と思う。『福音と世界』が、キリスト教会の危機を特集することがあるが、遠藤周作というキーワードはなかなか出てこない。読み直すのによいかもしれない。特にプロテスタントは、まともに遠藤周作など相手にしなかったのではないか。その閉塞感の打破に、私は本書は無力ではない、と思うのであるが、如何だろうか。




Takapan
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