本

『「ゴッド」は神か上帝か』

ホンとの本

『「ゴッド」は神か上帝か』
柳父章
岩波現代文庫G56
\1100+
2001.6.

 元1986年発行『ゴッドと上帝――歴史のなかの翻訳者』を文庫仕立てにしたものだという。言葉に関する知識について右に出る人はいないかもしれないほどの人だから、いまの題名だけで読みたいと思ったとき、日本語訳聖書の「神」の由来が教えてもらえるのかと思い、注文した。
 すると、どうやら思惑は違った。しかも、語学や文化的なものではなく、歴史を辿るものだった。日本でなく、中国の歴史だった。著者にとっても、初の歴史物だというから、私がまさか歴史ではないだろうと考えたのも無理はなかったと言える。が、ともかくこれは中国に聖書が入った時の歴史を追究するものであった。
 モリソンという宣教師の生い立ちが説かれ、中国語を学び辞典をつくり、聖書を訳したというあたりが本書の通層低音である。これに幾人かが沿うてきて、聖書の訳がメインストリートを形成する。
 そこに、翻訳論が筋を通している。これがやはり著者の真骨頂であろう。翻訳とは何か。翻訳句から私たちは何を読み取ることができるか。ここにそれは明らかにしないが、言葉を置き換えるということの意義を繰り返し説き、その認識のずれによって訳語が違ってくる様子が生々しく伝えられる。
 時代のなかで、アヘン戦争が大きな意味をもつものとして取り上げられ、それはそれは詳しくアヘン戦争について説明が施される。しかしそのとき、訳語という問題が見事に絡まり、歴史的な事件の背後に何があったのかを、歴史マニア的に知ることができるようになる。
 ところでゴッドであるが、これを「神」としたのはモリソンであった。しかしこの漢字はどちらこというとspiritに近い意味を中国語ではもつのだという。だから「上帝」がよいと言った人がいるわけだが、しかしこの語を選んだ背景にはどういう理解があるのか、翻訳のなかで何を優先してそうしたのか、だから精神的に何を抱きながらその方針をとったのか、それを論じる中で、翻訳に関する考え方の相違や、その歴史的影響が明らかにされていく。少しばかりミステリーじみた面白さがそこにある。
 しかし私たちにとり関心があるのは、日本語の「神」である。そればかりでなく、聖書には中国訳の影響が非常に大きいことが指摘され、そもそも「約」が契約であることを、知らないクリスチャンすらいるのではないかと言い始める。確かにそうかもしれない。「契約」という概念はキリスト教からきているから、果たして日本人に聖書の意味がどう伝わっているか怪しいかもしれない。言葉は文化的背景を含んでおり、既製の語を使うときにどうしても、理解のずれが起こりうる。その問題を、著者は読者に問いかけるかのようだ。
 終わりのほうで、太平天国の乱の洪秀全のことが長く語られる。その聖書理解に独特のものがあり、選んだ訳語が実は彼の聖書理解のずれのようなものに基づいていたのだろうと説明する。そのために持ち出した箇所が創世記の蛇のところである。蛇を悪魔として認識するときに、悪が外から来るというイメージでしか捉えていないような語の使い方だというのである。しかしサタンを外なる存在として悪の因をそこに見るときには、聖書の捉え方がやはりいくらか違うと言わざるをえない、と著者は言いたいようだ。
 そんなことを踏まえながら、著者はキリスト教には手厳しい考えをもっている。アヘン戦争の時にもその稚拙さがあることを指摘する。何も揚げ足を取ろうとするわけではない。何か信仰の根本のところで、洪秀全には褒められない事情があったというのである。
 聖書の解説にはなっていないが、聖書を通じて展開する中英の関係や、翻訳にまつわる哲学のようなものが絶え間なく押し寄せる本文は、読みやすく、またわくわくする。教義的なものはそこにはないが、歴史的な背景を私たちにとことん伝えようと労苦している様子が窺える。
 日本語を含む言語についての関心と、聖書のことはある程度知っていることを条件としたいが、そういう人に本書は向いていると言えるであろう。また、著者の力作であることはよく伝わってくる。本書の最初の発行の題「ゴッドと上帝」は著者の愛する言葉であるとし、全てに墓石に刻んでいるというから驚きである。新しいこの版では題名がそれでなくなったことを残念がっていたが、プロの方がそれだけ聖書にまつわる訳語について悩んで調べてくれているということを有難く思う。




Takapan
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