本

『英文法をこわす』

ホンとの本

『英文法をこわす』
大西泰斗
NHKブックス958
\966
2003.1

 英語を学ぶ本は、非常によく売れるらしい。私もそこそこ貢いでいる。日本人の英語コンプレックスがあるのか、英語をなんとかもう一度勉強したい、という心理があるのか、そうした分析は今は控えるが、私などは、それほど勉強し直しても、べつに話せるようになるわけではない。
 ただ、興味はある。英語の発想というものに。言葉は、人の思考である。だから、英語の構造なり言い回しなりが、日本語と違うとすれば、私たちとは違ったものの見方をしているのだろうし、違う場所から違う風景を見ているということになる。
 聖書は何も英語で書かれたわけではないが、ギリシア語以来のヨーロッパ系の言語をごった煮のように取り入れてしまった英語の中には、たしかに聖書を二千年間伝えてきた文化の何かが含まれていると言えるだろう。
 それに、強い関心があるのだ。型どおり訳せたとしても、その訳で果たしてよいのかは分からない。クリスチャン向けの記事をネットで見ても、どうにも通常の訳ではまかなえないことが多いことに気がつくと、どういう発想で英語が用いられているのか、そこに強い関心があるというものである。
 そこで私が、近年ますます確信を強くしていることは、英語には英語の感覚というものがあり、その視点が私たちの日本語とは異なり、その異なることによって、聖書や福音を伝えてきた背景があるとすれば、もしかすると私たちが日本語で聖書を捉えているときには、決定的な見落としや誤解があるかもしれない、というようなことである。
 肝腎のこの本そのものをご紹介する前に終わってしまいそうである。
 著者は、大胆な破壊的タイトルの本に、「感覚により再構築」という、建設的な意見を加えている。限られたうまい言葉で断定的に捉えることは難しいかもしれないが、その英語の言葉のもっているニュアンスをからだが掴むことによって、並べられた言葉が伝えようとしていることを感じてしまおうというふうな、英語の捉え方を提示しているものである。
 心理的にも、言おうとしているのは尤もなことであり、私がここしばらくずっと考えていたこととほぼ一致すると見てよいであろう。
 学校英語の教え方が如何に誤っているか、せいぜいそれが如何に非合理的であるか、悉く対決するかのように述べられているが、ある意味では、学校英語の学びがあったからこそ、そのような反論も読みとれるわけであって、日本人が果たして元々学校英語なしに、英語を感覚で掴むネイティヴスピーカーのような英語理解を最初からできるのかどうか、という点は疑わしいように感じる。つまり、学校英語あってこそ、この本の内容も理解できる、という部分があるのではないか、というわけである。
 それはまた、英語教育の考え方になるので、たぶん素人の私などよりも、著者のようなプロが考えて行うことのほうが、的確であろうというふうには予感している。ただ、私の関心に戻れば、聖書をどう理解していくか、ということだから、たとえば、この本にある「theが1つに決まるイメージをもつ」ということ、そして範囲を広げて考えれば、1つなのか二つ以上であるのかをつねに意識しているというのは、唯一神の信仰と関連しているところがあるのではないか、というふうにも、勘ぐりたくなるのである。しかも、現在形が自分を包み込む安定した状況を伝えることや、具体的なイメージを伴うかどうかで咄嗟に使い分けられる冠詞についてなど、神の信仰と強くつながって理解可能なことは、少なくないと感じた。
 こうした背景を見つめることによって、逆に、日本語の中に神をイメージしていくにはどうした言い回しや考え方が必要であるのか、そんなことを考えることができるように思うのである。
 私の英語探索は、まだしばらく続きそうである。




Takapan
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