本

『わたしは「セロ弾きのゴーシュ」 中村哲が本当に伝えたかったこと』

ホンとの本

『わたしは「セロ弾きのゴーシュ」 中村哲が本当に伝えたかったこと』
中村哲
NHK出版
\1600+
2021.10.

 2019年12月4日。その知らせは突然に届き、私たちの心の中央を貫いて穴を空けた。中村哲さんが、殺害されたのだという報道は、しばらく信じられなかった。
 ここでこの人のプロフィールを紹介するのは野暮というものなのだろうが、福岡が生んだ医師であり、アフガニスタンを救った勇者である。バプテスト連盟の教会員であり、福岡に戻ってくれば、通常の取材や講演会もあっただろうが、福岡を中心とした教会を巡り、そこで共に礼拝をし、証しをしたのだった。
 今回その教会関係の動きを辿るものではない。NHK出版である。200頁余りの本書にあるのは、中村哲さんの生の声である。声ではなくてもちろん文字であるが、これはNHKの深夜番組「ラジオ深夜便」の音声が見つかったので、文字にしたのである。つまり、これはインタビューである。夜中から朝方まで毎日休まず放送されているこの番組は、実に貴重な多くの人の声を有しているのだが、中村哲さんも何度も登場している。本書に納められたのは、六回にわたって出演したときに話したことである。1996年から2009年までのもので、医師としての活動から、井戸を掘るという活動に向けて、確かな足跡をここに見ることができる。
 中村哲さんは、本も書いている。ペシャワール会に属するが、そこに集められた寄付だけで、すべての事業を行っているため、レポートとしての本も、売れればそれがアフガニスタンで医療活動をするための、また灌漑を実現するための資金となるのであろう。福岡市内で公立高校のトップに立つ福岡高校から、旧帝大たる九州大学の医学部を出て、キリスト教の医療団体に属していたときに、パキスタンのペシャワールへと派遣されたのが、かの地との関係の始まりであった。その豊かな知力と優しい心、そして確かな技術が織りなす結果としての、すばらしい事業であった。
 その文筆家としても優れた人が、喋っている。するとどうなるか。書くことに優れた人は、書いた文字の与える影響の大きさを自覚している。これは書きすぎたかと思うと、表現を変えて出版する。推敲を重ね、より適切な表現に変えるだろうし、誰かが傷つくような表現と思えば書き直すであろう。しかし、録り直しもありうるとはいえ、ラジオのインタビューである。ひとの思いを引き出すのがうまいNHKのインタビュアーによるのであるから、きっと上手に導き出されたのであろう。書くときには出てこないような表現や、本音がこの中に詰まっているのではないだろうか。
 もちろん、それは人を傷つけるような暴言になるはずがない。担当編集社が記しているが、「道で倒れている人がいたら手を差し伸べる――それは普通のことです」という味わい深い言葉がある。多くの人の心に残っている中村哲さんの言葉なのだが、これは、著書には出てこないのだという。講演会で、なぜアフガニスタンで活動するのか、なぜ医者が井戸を掘るのか、という質問を必ずと言っていいほど受けるのだそうだが、そのときに中村哲さんは、いまの言葉を答えていたのだという。本にわざわざ書くことはないが、人との交わりではいつも口にしていたというのである。
 本書は、ラジオの中で説明された活動の内容やエピソードもさることながら、中村哲さんの、ぼそりと呟くような言葉の意義深さや慧眼というものを、改めて発見させられるような素材となっている。時折カラー写真の頁が用意され、そこには、インタビューの中で輝くような言葉があったとき、それがリフレインされているのである。写真の頁でなくても、本文がいきなり、行間が空き、2倍ほどの大きさの文字でゆったりと目立つように位置づけられた部分が時折登場する。それも、哲さんらしい、哲さんにしか言えないような、すばらしい言葉なのである。
 タイトルに、「セロ弾きのゴーシュ」が登場する。もちろん、あの宮沢賢治の名作である。哲さんは、自分の象徴として、自分とゴーシュを重ねて話すところが、本書の中程にある。セロ(チェロ)を弾くゴーシュは、楽団でうまく弾けず迷惑をかけていた。夜家で練習していると、そこにいろいろな動物が次々とやってくる。それぞれ頼み事をゴーシュに持ちかけるのであるが、ゴーシュは苛々しながらも、彼らに応対し、時に瀕死のネズミの子を癒やしてしまうことまでしてしまう。まともな練習ができなかったようなゴーシュだったが、いざ楽団の発表会で、ゴーシュは見事な演奏をしてメンバーを驚かせる。哲さんは、自分が引き下がれなかったからここまできてしまったのかもしれない、と言い、「ちょっとしてやらんと悪いかな」とやっていたら、いつの間にかうまくできるようになっていた、そんなところだろうか、と述べている。
 ここを、象徴的に用いて、本書は全体を導く適切なタイトルを得たことになる。セロ弾きのゴーシュなのだ、と。粋な計らいとでも言うのか、本書はちょうど中央のところに、この「セロ弾きのゴーシュ」全文を掲載している。どうぞこの童話も、じっくり読んでみて戴きたい。心が温かくなること、請け合いである。
 私たちは宝を失った。だが、本当に失ったものはないはずだ。アフガニスタンの砂漠に水が行き渡り、緑の野に変わった。その様はNHKのテレビの特集でも目撃した。アフガニスタンの人たちの人情や優しさ、素直な性格も十分知り尽くした哲さんは、ただ助ければよいのではないことも強調していた。自分で食糧が生産できるようになればよいのだ。そのために、水が必要だった。まさにそれは、生ける水であった。「わたしを信じる者は,
聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」という聖書の言葉が思い出されるが、哲さんは生ける水を、人でありながら流すことができたのだ。人々が、生きたのだ。
 そのアフガニスタンが、温暖化ということなのか、雪の量が減り、慢性的な干魃の危機に見舞われている。政治的な理由から、難民が発生している。
 緑茶を消費するのは、モロッコのほかは、日本とアフガニスタンだけなのだそうだ。つながる心が、きっとあるのだと思う。イスラムについての偏見や無知も多い。タリバンと聞けば悪者というような報道があり、そのように思い込まされている現状もある。果たして今、人口の八割以上を占める農民が、仕事ができているのだろうか、医療環境、衛生環境は保持できているのだろうか、子どもたちは守られているだろうか、教育はなされているのだろうか。中村哲さんは、現地で水を引いて植物や生き物を育んだが、哲さんが架けようとしたアフガニスタンとの間の橋を、私たちは知ろうとしているだろうか。
 ペシャワール会は、本書発行の直後に、現地で治安が回復していること、人々がタリバン政権を受け容れていることなどを報告している。平和を否定しているのは、私たち自身の偏見なのかもしれない、そんな可能性を考えてみる必要がないだろうか。




Takapan
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