本

『ガリラヤとエルサレム』

ホンとの本

『ガリラヤとエルサレム』
E.ローマイヤー
辻学訳
日本キリスト教団出版局
\3000+
2013.6.

 20世紀前半の著作となると、もはや古典となるようである。神学の展開は早く、学説も移り変わる。だが、注目すべき論文・著作というのは確かにある。いまを生きているだけでは気づかないような、そんな過去のきらめきを紹介してもらうと、ずいぶんと得をしたような気がする。
 偶々中古書扱いをしているワゴンを見つけ、ちょいとその場で調べてみると、これはなかなかの内容のようだと知った。薄手の割には高価で、古書扱いとしても少しためらうような値段であったが、安く出回ってはいないようだったので、その場で購入することにした。
 タイトルがシンプルである。読めばその意味もよく分かる。原始教団と呼んでよいのかどうか分からないが、キリスト教会あるいはキリストの弟子たちの共同体が始まったころ、すなわち新約聖書の文書が記されたころ、ガラリヤを拠点とする集団と、エルサレムを拠点とする集団と二分されていたのではないか、というのがこの考察の主旨である。
 福音書や書簡が、大きく二つの流れに分かれるという著者の見解は、きっと誤ってはいないだろう。指摘の契機は、イエスの復活の地がガリラヤとエルサレムと別々に記されているというものであった。すると、文書の背景に、そのどちらを中心に置いているかについて、明らかな差異があるということになり、主の兄弟ヤコブの存在を軸に、ガリラヤの共同体を大きく取り扱うようにしていくというものである。
 訳者は最後に、今日ではこの説は基本的に受け容れられていないと説明している。このような説明は大切である。この時代的な見解という指摘は、いま学ぶ私たちにとり、必要な情報であろう。ただ、この研究方法については後の神学者たちがその手法を使うなどして、目覚ましい研究進展を与えたという意味で、学会に貢献した点を否むことはできない、として紹介したという背景が記されている。まだ編集史的研究という方法が取られていなかった1930年代にあってこのような研究が発表されたのは、大いに意義があったというのである。
 たしかに、ガリラヤという地には魅力がある。そもそもナザレという村さえよく分かっていないとあれば、福音書がどうしてあれほどまでガリラヤを描き、ナザレのイエスと呼ぶことを表に出したのか、謎と言えば謎である。異邦人の地ガリラヤという預言だけがその理由のすべてであるかというと、分からないと言わざるをえないだろう。注目すべき対象としてガリラヤを取り上げたことは、このローマイヤーの結論が根拠に乏しいなどという点を抜きにしても、確かに見逃したくない点ではないかという気がしてくる。
 著者のローマイヤーは、数奇な運命を辿ったということがそこに紹介されている。軍事的な理由で死刑に処せられたというのである。しかし後に名誉回復はなされたというが、後からなされても本人はもう殺されている。キリスト教思想を研究する有能な学者がどうしてそのような目に遭ったのか、これは本書とはまた別に興味深く思われる。礼拝説教も遺っているというが、思うところを隠さず表に出すことをモットーとする著者の生き方には、私たちもはっとさせられるものがある。
 そして、他人の研究を受け売りして知ったような口をきく現代の私たちについても再考を迫られる。これだけ情報が溢れている中で、検索したことだけでよしとし、分かったようなふりをしている欺瞞を重ねていることでよいのか。自分の手で丁寧に文献を探り、さらに言えば、神のことばであると自負している聖書と、直に魂の領域で格闘しているのかどうか、問われているといわざるをえなくなる。流行りの説に乗っかって自分が業績を重ねるという手法を、著者は望みはしなかっただろう。その生涯を懸けて取り組んだ研究の、文字だけからは伝わらないものを本書から受け取るのが、私たちの義務ではないかとも思われるのである。




Takapan
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