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『現代思想2022年8月 vol.50-10 特集・哲学のつくり方』

ホンとの本

『現代思想2022年8月 vol.50-10 特集・哲学のつくり方』
青土社
\1500+
2022.8.

 面白かった。そもそも哲学とは何か。そんなベタなことを問う企画が、近年殆ど見られなかった。あるのは、100年前に生まれたような方々の、真面目な人生論が問いかけて、哲学とは、と語るようなものばかりだった。ポストモダンすら歴史的産物となったような中で、もはやかつての哲学などという姿とは無縁な思想状況となっているようだ。互いに通じない言語を用いてあれこれ論評するかのようなものが、なんだかファッショナブルにすら見えていた世界に、まだ「哲学とは何か」という問いが、問う可能性があるのだ、というのは、なんともノスタルジックで、なんともほっとするような気持ちすらした。
 サブタイトルが「もう一つの哲学入門」とあるが、「つくり方」ではひっかかりをもつ人に対する弁明のようにも見える。「つくり方」で押し通してよいのではないか。
 こうなると、哲学を「つくる」とはどういうことか、と噛みついてくる論者もいる。それでよいのだ。哲学にとって、問うてはならないというタブーはない。この企画にうまく乗って、自分の専門分野を楽しそうに解く人がいてもいいし、この企画自体を吊し上げるような問い方をしても構わない。それが哲学だ。普通のイベントなら、そのイベント自身の価値を問うような真似はしないものだが、こと哲学については、それが許される。というより、それが哲学であるわけだ。
 近ごろ現代思想を、フランス側からではあるが分かりやすく説いたとしてよく知られるようになった千葉雅也氏が、冒頭で「偶然性と多元性」について、より人間の領域に関心をお持ちであるような山口尚氏と対談している。そこで「哲学をつくる」ということへの導入がなされるという仕掛けである。歴史上の、体系構築のような哲学のタイプではなく、その「つくる」こと自体が自由であって、その都度意味をもつような、絶え間ない試みであってよいはずだ、ということのようである。哲学への入口そのものは、私たちの前に十分広く拡がっているはずなのである。
 そのようにして、各人がそれぞれの立つところから、哲学とは何か、を語り始める。これは私にとり、たいそう親しみがもて、身を乗り出してその論議に参加させてもらったのであった。
 そうした中で、特に印象に残った論文をいくつか紹介する。まずは森岡正博氏の「私にとって哲学とは何をすることか」である。近年は反出生主義について説明する機会の多い方だが、自分自身の生を問い直すことへの視点は、以前ならば当たり前の前提であったようなものだが、いまはそれが実は薄いのか、改めて必要なことのように提供されている。その中で「無痛文明」という言葉があることを知った。人は、痛みをなくす方向で、物事に夢中に取り組んできた。それへの反省が必要ではないか、と私は受け止めた。今後の若い人々に、その先が期待されているようだが、果たして、うまくいくだろうか。
 河野哲也氏の「哲学とは何か」は、正面から根本的な問いに挑んだものだが、そのように問うことの意味について、基本的な視野を紹介してくれていたように見える。ただ、それを「子ども」という言葉を鍵にして語っていくところに、大きな特徴がある。誰でも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない、という福音書の言葉を思い出させるような気がした。
 鈴木祐丞氏の「キェルケゴールと哲学」は、キェルケゴールに絞った語り方であったが、簡潔でありながら、非常に優れたキェルケゴール入門となっているように思えた。これを見て、私もまたキェルケゴールを読み直してみたい、と思ったほどである。特に、彼のソクラテスへの傾倒に重きを置くところに、今回の「哲学とは何か」に大いに関わるものがあったはずであるが、さらにウィトゲンシュタインに触れた点が、際立っていた。キェルケゴールにしても、ウィトゲンシュタインにしても、そこに宗教性が深く関わっていることに、意義があるように思うのだ。つまりは「罪」という問題である。哲学は、そこからの「癒し」であるだろう。論者はそれを「治療」と呼んでいるが、自分自身の生がこの世界の現場に立ち、そこから思考すること。その行く先に、ソクラテスの目指した「善く生きる」という人生があるに違いない。
 横田祐美子氏の「わたし、変換器」も面白かった。男という性にあって、私もけちょんけちょんにされたような気がしたが、「私」が現れないように気を付けながら「我々」の中に逃げ込むことが、学術論文としての哲学がやろうとしていることだ、と暴くのは、小気味よかった。「変換器」というのは、他者の思考を「私」の中で変換することに対して恐れるな、ということのようらしい。ひとつの研究発表の現場での異様な事態に反応した、論者の執拗な攻撃のようにも見えるが、その現場で見えてきたものを、手際よく私たちの目の前に見せてくれた、と言った方が適切ではないかと思う。
 最後にもうひとつ、松井哲也氏の「AIで哲学する/AIと哲学する」は、哲学者関係ではなく、AI研究の情報工学者によりもたらされた、今の時代に必要なよい提言であった。「誤読」しないAIには哲学はできないだろう、とそこで考えを述べる。人間は、両義的・多義的な解釈を行うが、そこに、AIにはできない思考が、そして哲学が、あるのだとするのである。その中で「心」について、それが主体の内部にあるものではなく、主体同士のインタラクションを通じて創発するものだ、という点には教えられた。だからそこに、誤読も起こりうるし、新奇な概念も生じる可能性がある、というのである。但し、それが知識となるには、「待つ」ことが必要だという。新しい概念も、それが熟した知識も、努めて「つくる」というものではうまくいかないだろう、と言い、いわゆるシンギュラリティには関心がない、と論者は明言する。
 私は、聖霊が降るのを待っていた、キリストの弟子たちの姿を、ふと思い浮かべた。聖書のイメージは、物事を真摯に考察すると、様々な形で重なってくるものではないだろうか。論者も、世界の外部を志向して「私」を感じるということを、ここで「祈る」ことだと表現している。やはり聖書には、深いものがある。




Takapan
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