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『現代思想2022.2 vol.50-2 家政学の思想』

ホンとの本

『現代思想2022.2 vol.50-2 家政学の思想』
青土社
\1500+
2022.2.

 家政学。地味なタイトルだとお思いかもしれない。衣食住。義務教育では家庭科というところか。大学でも家政学部などというと、女性がちょこまか何かやっている、というくらいの認識しかない人がいるかもしれない。だが私は最近そこに非常に関心があった。それは人間が生きる上で、無視することがありえないにも関わらず、学問としては無視し続けられてきたことではないか、と。
 人間が、食べていること、着るもの、日々住むその家や環境、それは、当たり前過ぎて話題にもならないものなのであろう。小説でも、こうした営みをずっと綴っていたら、退屈極まりないものだろう。そこをけっこうちゃんと綴る村上春樹のような文学が注目されているというからには、人間、やはりこうした日々の営みについては、文学が見落としていたのだということに気づいているのかもしれない。
 当たり前のことについて、人はことさらに言及しない。そして、そこに研究の必要があるという意識をもちにくい。とくに、旧来女性がするものだ、という誤った観念に支配されている男性たちからすれば、まるでお嬢さん芸だとでも言うように、どうでもいいようなことだと見過ごされているのではないかと危惧する。しかしその男性は、毎日何かを食べている。きっと誰かにつくってもらったものをただ食べているのだろう。服を自分で繕うようなこともなく、当たり前に着て、ただ脱いでいる。洗濯さえしていないのではないか。だがそうしたことは、当たり前のように自分に用意されているのではないはずだ。
 それを女性が専らしているのだとすると、まるで女性の仕事は奴隷の労働だとでも考えているかのようである。ゴミ出しを手伝うよなどと威張る男性も、そのゴミ袋に各部屋のゴミを集めてまわり、ゴミ箱の準備をするのはご自身なのだろうか。外に出すなど、大したことではないのである。
 執筆者は女性が居並ぶ。こうした面にも、この方面における研究に男性は関心がないのだというところがよく出ている。そんな中、男性の執筆者がいた。そしてそのような点を論じていた。こうした人がもっと増えなければならないと思う。  一体、家庭というものを誰が支えているのか。そしてその家庭こそ、人間がまさに生きている場所ではないのだろうか。過労働であれば別だが、標準時間の労働であるならば、家にいるほうが時間的に長いはずだ。だのに、家庭生活についてはまともに論じられることがない。
 このシリーズであるから、なかなか言いたいことをびしっと言う論調が多いのと、様々な角度から家政学、あるいは人間の生きる場や世界についての論考を集めてくれている。こうした企画はありがたい。現在どんな研究が行われているのか、どんな問題点があるのか、少しずつ読んでも一か月で読み切る程度の中で、広い見識を与えてくれるのである。
 新型コロナウイルスによるパンデミックの時代における家政学をも考える必要がある。教育は家庭科というものにどんな位置を与えているのか。食においてどんな倫理的問題があるのか。実のところ、栄養に対する思想ですら、近代から大きく変わってきているし、その変化には一定の理由や背景が考えられるというのであるから、奥が深い。いまの私たちの常識としているものが、ずっと以前から常識だったのではないわけだ。逆に言えば、いまの私たちの常識ですら、いつ誤りとされ、別のパラダイムに置き換えられるのか、分からないということになる。
 エコノミーとエコロジーの思想史は二人の学者の対談であったが、聞き応えがあった。エコなどと軽く言われるエコロジーは、もはやファッションと化し、エコロジーものを商売のネタにして資源を浪費しているなど、矛盾以外のなにものでもない。また、エコノミーは、オイコノミアとして、聖書世界で教会の形成のために大切な鍵になりうる考えに基づいている。聖書は神を離れ拝金になることがとんでもない罪だとしているが、その聖書の求めるものの反対の金こそがエコノミーなどとするのは、本末転倒もいいところであるはずだ。私はお二人の対談を拝聴しながら、そんなことを思い浮かべていた。
 なお、個性的な論考をたくさん見ているうちに、ふと気づいたことがある。どうにも理解しづらいものと、すうっと入ってくるものとがはっきり分かれているのだ。私がそのことについて無知だから読みづらいのかもしれないと思ったが、よく知らない事柄についても、読みやすいものがあるから、悩んでしまった。私の思いついた結論は、その書き手の文章力ではないかということだ。読み手に分かりやすく書くことのできる人と、自分の中ではよく分かっているが読み手がどう理解するかについて殆ど関心がない人とがいるというように思うのだった。難しいことを易しく書くのは難しいと言われる。だがそれはもう少し具体的に言うと、読む者が理解しやすいように書くということが大切だというふうに思い当たるのだった。私はなかなかそれができないでいるのだろうが、そのように書きたいとは願っている。
 最後に、どうして家政学に私が注目していたかということについて触れておく。それは、聖書、とくに福音書である。イエスの教えと旅が書かれている。十字架の裁判や刑の執行、さらには復活までよく描かれていると思う。それは独特のジャンル出会って、通常の文学ではない。新しい分野をマルコがつくったというふうに見てよいだろうと思うが、この福音書の中では、イエスや弟子たちが、何を食べ、何を着ていたかについて、殆ど分からないのだ。そもそも金を持って旅していたのではないのだが、どのようにして食いつないでいたのだろう。それは、いまの私たちの小説でも、触れられることがない。毎日どのように食べて生きていたのか、それは村上春樹ならばよく描きこんでいるのだが、普通は書かれない。当たり前すぎて、描きはしないのである。福音書では、女たちが従っていたという記述はある。だとすれば、生活の面倒はその女性たちが担っていたであろうことが想像される。
 日常生活の常識があるからこそ、譬があり、行動があり、教えがあったはずである。書いた当人にとっては、読む人にもそのあたりまえすぎる常識をわざわざ書く必要など感じないのである。いま私たちが、電車の乗り方だとか、会社の仕組みだとかを、わざわざ小説に描かないのと同様である。しかし、時代と文化が異なるところで福音書を読もうとする私たちは、それを知らないカラこそ、記述の意味が分からないでいることが少なくないはずだ。
 イエスの地上生活における家政学を、どなたか教えてくださらないかと願うばかりである。




Takapan
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