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『現代思想2017.5 vol.45-8 特集・障害者――思想と実践』

ホンとの本

『現代思想2017.5 vol.45-8 特集・障害者――思想と実践』
青土社
\1400+
2017.15.

 ふと思い立って取り寄せた。「障害者」は、自分ではない、というふうには認識していないのだが、社会的に何ら不都合を背負っていない私は、そのように言うべきではない、と考えている。そのため、涼しい顔をして社会生活を当たり前にスムーズに送ることができる私は、障害者から見れば、どうあってもフィールドの違う住人というように見られるだろうと覚悟している。事実、その通りだろう。せめて、いとも簡単に、口先だけで「寄り添う」といった美しい言葉を吐いて自己満足するようなことだけはすまい、と自戒している。
 熊谷晋一郎さんについては、何冊か本を読ませて戴いた。國分功一郎さんとの対談などである。そのときに主題となっていた「責任」は、今回も当然触れているが、杉田俊介さんと、さらに突っ込んだ具体的な場を目の前に見せてくれている。問題をこのように言語化できるということは、なかなか誰もができることではない。貴重な声として、活躍を願うものである。
 長らく障害者運動に取り組んできた方々、それを立ち上げ、交渉し、労苦を伴ってきた方々の声は、貴重である。自ら障害を負う当事者もあれば、それを援助し「共に生きる」働きをしてきた方もいる。介助という立場で、障害者と介助者の関係について、現場から生々しいレポートをしてくれた方もいる。
 幾度も出てくる「青い芝の会」にしても、事実運動に関わるようなことがなければ、殆ど知られることのない組織であるかもしれない。組織となれば、いくらかの力をもって政治的にも動くことができようが、また考え方の相違から、ひとつにまとまらず、分断される危険をも有しているかもしれない。その他、いくつかの共同体やグループの名前が、あちこちで飛び出す。たぶんその道の方々でなければ、知られていないのではないか。私も、正直存じ上げないものばかりだったのである。
 差別を漠然と論ずるのではない、現場で当事者がどのような差別を受けているのか。なにげない人間のふれあいの中で起こる差別と、差別的な眼差しを恐れて出て行けないというような情況も、知らされて初めて気づくというのが私たち健常者の実情ではないのか。また、それは社会制度の中でどのようにして起こっているのか。つまり、社会制度や政治において、何を直さなければならないのか。これも、いくら抽象的に考えても分からないものばかりである。実態として浮かび上がったことを、形にして、政治的に声にしていく働きは、やはり貴重である。それが立ち上がったとき、それによって初めて事態を知らされたような者が、次にどうするかが問われる。そこで賛同できるのか。何かしら支援することができるのか。それとも、無視したり罵倒したりするような言行に向かうのか。それはありえないことではなく、日常的に起こっていることであるはずだ。
 女性としての差別は、障害者であることに加えて、さらに大きくなる。広くジェンダーという観点からすると、さらに多くの不自由と共に、誤解や差別が多々ある。幾度も言うが、一般からは気づかれず、意識もされない問題が多いのである。私も男性として、理解しているつもりになど、ならないほうがよいとつくづく思う。女性としての辛さなど、何も分かっていない。だからまた、障害者についても、きっとそうなのだ。それを前提にしていかねばならない。それ故に、この特集号を読みたいと思ったはずである。
 すでに本書発行から5年を経て、私は手に取った。その間、コロナ禍を迎え、読んだ時点ではそのトンネルをまだ抜けきっていない。障害者施設での厳戒態勢も当然あるだろう。ここで紹介された、あるいは触れられた団体で具体的にどうであるのか、それはいま知るものではないが、これらの原稿で述べられた以上の困難を抱えているのではないかと推測する。従って、本特集のさらにコロナ版とでもいうものが、必要になってきた。かといって、感染症だけがメインになっているわけにもゆかない。パンデミックを脱出した上では、再び本書で指摘されているようなことが、中心問題となってくるはずだからだ。人々を分断させたコロナ禍は、共に生きるという、ただでさえ困難な課題を、さらに突き崩しにかかったとも言える。安易に「共に生きる」などと言うつもりは私にはさらさらないが、現実に「共に生きている」のは確かなのだから、人間の価値観が大きく変換することが求められているのではないか、と期待しつつ、本を閉じたい。だが、すぐに開きたい。開かねばならない。




Takapan
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