本

『GOD 神の伝記』

ホンとの本

『GOD 神の伝記』
ジャック・マイルズ
秦剛平訳
青土社
\3400+
1996.12.

 なんでもスキャンダラスな本としてアメリカで売れたのだという。
 ただ、タイトルからの印象としては、様々な民族や宗教における「神」一般のことに触れているのかという気もしたが、全くそうではなかった。これは、旧約聖書の神なのである。しかも、ヘブル語聖書に基づいて進むので、キリスト教的な脚色や解釈で理解していくというのではなく、キリスト教側が旧約と勝手に呼び換えている聖書の神を徹頭徹尾追い求めている。
 それもそのはず、1942年に生まれた著者は、イエズス会修道士として献身し、ローマ教皇庁の大学やヘブライ大学で学んだ、見事な知識人なのである。ハーバード大学で博士号を取得するなど才能を発揮し、聖書についての詳細な取扱いは、敬服に値する。本書は学術論文ではないために、他の研究家の業績に触れつつ進むのではなく、著者自らの計画に従って、ひたすら聖書を追いかけていく。そのため学問的な注釈は設けておらず、ただ本文に入れるには横道にそれそうな内容としての、事項の説明や引用の理由などを巻末に置いている。これを読まずして進んでいっても全く問題はないと言える。ジャーナリストとしても活躍し、神学校教授も経験している。とにかく聖書については深く知っている人なのである。
 しかし、本書はいま挙げたように、学問的なものだとは言えない。広く一般に、聖書についての一つの捉え方を提供したというようなものなのだが、それは、文学的な批評の姿勢に基づいた解釈を自由に述べたというような形になっている。とにかく本は分厚い。注釈を入れるとざっと600頁を数える。その中で、引用量も半端ないが、著者独自の視点から引用してくるので、必ずしも聖書全般をバランス良く引用するつもりはないようだ。
 重要なのはモーセ五書だ。このトーラーと呼ばれるいわゆる律法の部分だけで全体の三分の一を使う。預言者は併せても100頁であるから、著者の説明したいところが分かりそうなものである。しかし、それはまた、律法について言いたいところを理解してもらえたら、ほかの箇所についてはスムーズに進んでいけるだろうという見通しにも拠っているように見受けられる。
 神を、ひとりのキャラクターとして立て、まるでただの人間のように取り扱う。彼は無力であった、彼はわがままにも気に入らないと暴れる破壊者である、そのような感じで、一人の感情をもつ人間であるかのように、聖書の叙述の背景を形作っていく。しかも、「神」と訳されている語と「主」と訳されている語があることはよく知られているが、それらの区別や使い分けというものについても確かによく議論されることを踏まえて、著者は基本的にこれを別と捉えて味わい分ける。もちろん、神が2人いるなどという言い方はしない。が、元来多神教だった物語というものの存在から説いていったりするので、誤解を招く可能性はあるだろう。神は「性」をもたないが故に、人間を男と女とに造ったことに何らかの不都合な関係が生じるであろうとし、その他聖書全体細かな理解において、かなり「性的な」概念や心理を用いて説明するように見受けられる。フロイトを読み込んでいることも叙述から明らかであるが、フロイトを踏襲する云々はさておき、そのような心理の読み方を活かしているように思えることが時折あった。いや、確かに何か「性的な」感覚で読み込んでいくのだと言える。それは文学ならば当然のことだろう。しかし、さて聖書もそれでよかったのだろうか。
 ダニエル書に「日の老いたる者」という表現がある。「なお見ていると、/王座が据えられ/「日の老いたる者」がそこに座した。」(7:9)、「夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
7:14 権威、威光、王権を受けた。」(7:13-14)、「やがて、「日の老いたる者」が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである。」(7:22)、と3箇所あるが、ここに年老いたキャラクターとしての神を重ね、しきりに引用を重ねるところも印象的だった。
 訳者も、著者の意図を汲み出して伝えようといろいろ苦労をされているだろうと思う。たた、ひとつ気になったのは、後半幾度か登場する「自力本願」という表現である。自分の力を頼って事を成す、というようなことを言いたかったのであろうと思われるが、これは浄土真宗の「他力本願」という、救いの根源に関わる重要な概念をどうもおちょくっているような使い方のように見える造語である。わざわざこのように物議を醸すような表現をとる必要のない話の流れであったはずなので、これは残念な判断であったと感じた。
 信仰が揺るがないような方であれば、自由な想像の翼をはためかせる物語として、楽しんでみてもよいだろうと思う。なにぶん、旧約聖書についての相当に専門的な詳しい考えや知識が織り交ぜてあるのは事実であるから、学びだと思うならば、それなりに得るところはあるだろうと思う。旧約聖書は事実上、様々な人間の書き手が綴ったものである。すべての神概念が全く同じままに貫かれているとは言い難いことは当たり前である。だから、ある場面ではお節介につきまとう神であったかと思うと、別の場面では実に陰に隠れて静観していると思えることもあるわけで、それを殊更に文学的に驚きつつ紹介する必要があるのかしらとも感じたが、改めて指摘されると、なるほどそのように描かれてあるな、とか、書によってはずいぶん神が違う態度をとっているように見受けられるな、とか、刺激を受けることは多々ある。ピュリッツァー賞を受賞したというから、信頼できる聖書理解だ、というような思い違いさえなければ、それなりに楽しめることであろう。




Takapan
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